松永久秀の下剋上は、室町時代の身分秩序の破壊であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2172)】
ミツバツツジ(写真1、2)が咲いています。クルメツツジ(キリシマツツジ。写真3~5)が咲き始めました。ベニバナトキワマンサク(写真6、7)、レンギョウ(写真8、9)が見頃を迎えています。ヤブツバキ(写真10)、ツバキ(写真11、12)、カンヒザクラ(ヒカンザクラ。写真13)が落花しています。我が家の庭の片隅で、シバザクラ(写真15)が咲き始めました。因みに、本日の歩数は12,044でした。
閑話休題、『松永久秀と下剋上――室町の身分秩序を覆す』(天野忠幸著、平凡社)は、松永久秀の生涯を丁寧に辿ることによって、梟雄というイメージを覆すことに成功しています。
「(久秀が)終生、松永姓で戦い続けた相手とは、特定の誰か個人ではなく足利氏を頂点とする武家の秩序、すなわち戦国人の心の中にある常識であった。だからこそ、社会秩序を破壊する悪人として否定される一方、社会の変革者として隠れた人気もあったのではないだろうか。その行動は十分に下剋上と言えるであろう」。
久秀の下剋上に分け入ってみましょう。「久秀は、三好氏の下で権勢を極め、朝廷や幕府からは主家並みに遇されたが、主君長慶の意に背いたり、専横な振る舞いをしたりすることはなかった。そもそも、久秀の権力自体が、三好氏の力を背景にして作り出されたものであったからだ。朝廷や幕府に対して傲慢な態度であったように見えるのは、三好氏と将軍(足利)義輝の対立が先鋭化する中で、久秀が対朝廷・対幕府交渉を担ったからに過ぎない。・・・久秀の行動理念は、長慶やその後継者の義興、義継への忠節で貫かれていた。後見人を務めた義興の病気が重篤であることを知った時、久秀は悲嘆した。義継が京都で義輝を討った際、奈良で(足利)義昭を保護したのは、反三好勢力と交渉ができる余地を残すためであろう。その後、義昭を逃した失態で三好長逸に排斥されるが、義継との間に遺恨はなかった。義継が三好三人衆や篠原長房と対立すると、これを保護し擁立している。元亀争乱の際に三好三人衆方との和睦を成立させると、義継の下に松永氏・三好三人衆・阿波三好家を包摂する三好本宗家を復興させた。久秀は自分を取り立ててくれた三好本宗家への恩義を、終生忘れなかったと言える。そうした側面があるからこそ、清原枝賢や広橋国光、高山飛騨守ダリオ、柳生石舟斎宗厳らが、久秀の下に集ったのである」。
個人的に、とりわけ興味深いのは、久秀と柳生宗厳との関係です。「松永久秀が大和入国後に家臣化したのは、久秀に与した反筒井(順慶)派の国人たちではなく、むしろ筒井氏の家臣たちであった。・・・筒井氏に服属していた柳生宗厳も取り立てられた。・・・宗厳は久秀の信用を獲得していったようである。・・・宗厳が久秀の側近となり、取次として、その書状を相手に伝達し内容とともに久秀の意を披露した後、柳生家で保管したため、(『柳生文書』として)残されたのであろう。特に、永禄6年に三好義興が病床に伏した際、石成友通からその症状を伝えられた久秀は、気も心も消え入りそうだと弱気を吐露したり、隠蔽するよう意見したりするなどの返書を友通に認めている(『柳生文書』)。すなわち、宗厳は義興の危篤という機密情報を知っており、書面には記されない久秀の考えを友通に伝えているのだ。宗厳は久秀にとって、最も気を許せる家臣となっていた」。
「宗厳は久秀に寵愛されただけでなく、久秀の家臣とも深く交わっていた。宗厳が上泉信綱から新陰流を伝承して、さらに発展させたことで、五男の宗矩は徳川将軍家、孫の利厳が尾張徳川家の兵法指南役となった。・・・(宗厳は)後には、外部の織田信長らからも認知される存在となり、久秀の下で『興福寺在陣衆』を指揮するなど、軍事的基盤にもなっていく」。