榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ベーブ・ルースを唸らせた沢村栄治の栄光と悲劇・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2215)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年5月7日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2215)

芳香を放つニオイバンマツリ(写真1~3)の花は、咲き始めは紫色だが、やがて白色に変わっていきます。カラスノエンドウ(ヤハズエンドウ。写真4)、ナガミヒナゲシ(写真5、6)が咲いています。ヤツデ(写真7)の緑色の葉が目を惹きます。ニホンヤモリ(写真8)が定位置であるキッチンの曇りガラスに張り付いています。

閑話休題、沢村栄治という名投手がいたことは知っていたが、その全体像は霧の中であった。今回、『沢村栄治――裏切られたエース』(太田俊明著、文春新書)を読んで、沢村が身内のような気がしてきました。

1934年11月20日、ベーブ・ルース率いる大リーグ選抜軍との対戦での、沢村の目を瞠るような活躍ぶりは何とも圧巻です。「全米軍の猛者たちが、17歳の少年投手を相手に、虎の子の1点のリードを守り切ろうと緊張の極にあったというのだ。翌朝の読売新聞に<天晴れ沢村『日本一』の快投>の大見出しが躍り、大敗続きに切歯扼腕していた日本中の野球ファンは少年投手の偉業に快哉を叫んだ。この日以降、栄治には『日本一の投手』の称号が与えられ、『日本の職業野球はこの日から始まった』と讃えられたのだった。この日の栄治の快投は、全米軍にも強い印象を残した。この試合の夜、鈴木は蒲郡のホテルで全米軍のコニー・マック監督から、『沢村にその気があれば契約してアメリカに連れて帰りたい』。そう言われたという。この試合で栄治と3度対戦して、三振、中前打、投ゴロだったルースは、『沢村は試合を重ねるごとにうまくなっている。この試合を貴重な経験として精進していけば、必ず大投手になるだろう』と栄治の将来性を高く評価している。全米軍には、スチュアート・ベルという記者が同行していたが、この試合を観戦したベルは、<スクールボーイ・サワムラが、大リーグ選抜軍を完全に抑えた>と本国に打電し米国の読者を驚かせた。この『スクールボーイ・サワムラ』は、アメリカ人が最初に覚えた日本人野球選手の名前になったのである」。

「(巨人軍の)栄治は、この国内巡業40試合中に25試合と半分を超える試合に登板して、22勝1敗。158回を投げて三振187個という、投球回を大きく上回る奪三振を記録した」。

「夢を持って職業野球に飛びこんできた選手たちが、球団幹部の内紛や選手への配慮のなさで振り回され苦しんでいるのは巨人軍だけではなかった」。

「筆まめだった栄治は弟たちにもよく手紙を書き、その中で自分が仕送りする金を使って上の学校に進み、ゆくゆくは頭で勝負できるような仕事を選べと繰り返し説いている。慶応への進学が内定していながら、中学中退で職業野球の世界に身を置かねばならなかった自分をどのように捉えていたのか、窺い知れるエピソードである。栄治は、月給の3分の2を実家に仕送りしていた。働いて家に仕送りするのは長男として当然の役目。そう理解はしていても、京都のじいやんや父は、自分を金の生る木のように思っているのではないか。20歳の若者が、そんな境遇から抜け出して自分のしたいことを自由に心おきなくやってみたい、そう考えるのは決して不遜ではないだろう。そしてもうひとつ、慶応への進学断念は、栄治に大きな悩みを突きつけつつあった。徴兵である。栄治は、この年の2月1日の誕生日で20歳になった。当時の徴兵制度により、20歳を迎えた男子は徴兵検査を受けなければならない。・・・もし栄治が慶応大学進学の道を選んでいれば、大学生には26歳まで徴兵を猶予する特例があったので、20歳での召集に怯えることもなく、神宮球場で多くの学生の応援を受けながら野球を続けることができていたのだ。京都商業卒業間近の17歳のとき、京都のじいやんと父の賢二が下した決断は、20歳の栄治に大きな苦悩をつきつけていたのである。『私は野球を憎んでいます』。父・賢二に宛てた長い手紙を書いた翌朝、栄治は巨人軍、そして発足間もない職業野球を支えるエースとして、春季リーグ戦が開幕する上井草球場に向けて同僚たちと共に宿舎を発っていった」。

「(栄治の短い生涯の伴侶となる酒井優と出会った)頃から、徴兵検査を受ける7月までの3カ月弱の期間が、栄治の投球の絶頂期といえるだろう」。この名家の令嬢・優との恋愛は、身分違いということで優の一族の反対を受けて難渋するが、優の果敢な行動が突破口を開くことになります。

「職業野球の初代最高殊勲選手に輝いた栄治は、このとき20歳5カ月。これが、栄治の短い投手生命の絶頂期の終わりになるとは、本人も、周囲も、誰も思わなかったに違いない」。

「運命はどこまでも栄治に過酷だった。(一人娘の)美緒さんが生まれてわずか3カ月後に、栄治のもとに3度目の召集令状が届いたのだ」。沢村が所属する部隊を乗せた輸送船が、東シナ海で米国の潜水艦の雷撃を受けて沈没、生存者なし。ああ、この時、沢村は27歳でした。