榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

講談社を創立した野間清治という不羈奔放な男の生涯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2220)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年5月12日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2220)

アイスランド・ポピー(写真1~4)、ヒルザキツキミソウ(写真5~8)、ユウゲショウ(写真9)、オダマキ(写真10)、キショウブ(写真11)、シラン(写真12)が咲いています。

閑話休題、『出版と権力――講談社と野間家の一一〇年』(魚住昭著、講談社)の魅力は、3つにまとめることができます。

第1は、講談社の創立者・野間清治の不羈奔放な生涯が生き生きと再現されていること。生き生きというよりも、赤裸々な書きぶりで、講談社がよく本書を刊行したものだと驚くほどです。

「清治が考えたのは、民衆教育のための新しい雑誌だった。単に娯楽や慰安のためではない。『修養もでき、読書力も文章力も常識も、その他いろいろのものを養うことができる』教育的雑誌である。これなら『雄弁』のように当局の圧迫も受けず、広範な大衆に読んでもらえる。別の言いかたをすると、清治は社会主義思想の蔓延を防ぐため明治政府が打ち出した民衆教育政策に順応し、それをみずからの事業に取りこもうとしたのである」。

「このころ清治は、<雑誌をやりながら、これを踏み台にしえ、ゆくゆくは政界にでも乗りだそうという野心もあった>(口述録より)ので、政界方面の人間たちとの交際をつづけていた。あちこちで演説会があると、行って演説をし、派手に飲み食いをした。<(沖縄時代以来)しばらく隠忍しておった自分も、ついにまた昔の放埓に帰って大言壮語、暴飲暴食といったようなことで、名家名門に出入りするといったようなことをやっておった>(同)。当然ながら、野間家の財政は悪化の一途をたどった。こうなったら一攫千金をねらうしかないと、清治は懲りたはずの相場に手を出した。しかし、『米』も『株』もみごとにしくじり、借金は一万円以上に膨れあがって、月々の金利が八百円ないし一千円に上った。その金利を払うには、高利の金を借りなければならない。清治は朝四時に起き、白山下から出る電車に乗ってあちこちの高利貸しを訪ね歩いた。大学に出勤すると、いろんなところから支払いの催促の電話がかかってくる。資金繰りは<その日その日が決戦で、一日一日どうにか過ごされればそれでいい>(『私の半生』)というありさまだったから、夜、床についても、明日の金の算段が気になって、なかなか眠れない。清治が寝返りを打つと、隣の左衛が、『あなた、<講談倶楽部>はどうなるのでしょう?』と、心細げな声を出した。清治は、『どうにかなるだろう』と、捨て鉢な言葉を吐いた」。

「明治後期から『修養主義』ブームが起きた理由ははっきりしている。明治初期以来、日本の資本主義の原動力となってきた『立身出世主義』が行き詰まったからである。能力さえあれば、一足飛びに出世できた明治初期と異なり、出世の道はほぼ中等学校→高等学校→帝大ルートに限られ、狭き門からあぶれた青年たちの不満を解消することが時代の要請だった。講談社の飛躍的な成長は、そうした明治後期・大正期の青少年たちが置かれた状況と密接な関係があるのだ。・・・「中等学校に行かなくとも偉くなれる』は、学歴社会から弾かれた青少年たちの生きる糧となる力強いメッセージであった。と同時に、目標は出世・金儲け、達成手段は修養の積み重ねという単純明快な図式は、国家や社会に対する批判的視点の入りこむ余地がなかった。大正末期から昭和にかけ、一世を風靡した『講談社文化』の強みも弱みもこの言葉に凝縮されていた」。

「清治の口述録を読むとわかるのだが、彼は少年部の育成を始めたころから、講談社を一企業というより、営利事業と教育を融合させた『修養主義雑誌王国』に仕立て上げようという野望をもつようになる」。

清治は、昭和13(1938)年10月16日、59歳で病没。

「戦前の『雑誌王国』講談社が往年の勢いを完全に取り戻すのは、戦後の高度経済成長が本格化した昭和四十年代に入ってからのことである」。

第2は、明治・大正・昭和に亘る野間家の人々と講談社のありようがドラマティックに浮かび上がってくること。個性的な男女が登場し、まるで小説の世界のようです。

第3は、明治以降の日本の出版・新聞界の歴史を俯瞰できること。とりわけ、野間清治、岩波茂雄、滝田哲太郎(樗陰)、正力松太郎の対比が鮮やかに描き出されています。

「野間(清治)の東京生活がはじまった明治四十年十月、二十世紀の新聞・出版界の主役となる四人が本郷界隈にそろった。彼らはまだ自分が何者であるか知らない。互いの顔も名前も知らない。岩波茂雄は哲学科の選科三年目。下宿先の娘である赤石ヨシと、この年の春に結婚し、十月から本郷弥生町に新家庭を営んだ。滝田哲太郎もすでに、少年のころから恋していた同郷の阿部千代子と結婚して家庭をもち、政治学科に籍を置きながら、駒込西片町の中央公論社で働いていた。独法科に入ったばかりの正力松太郎は、同年十一月十日、柔道の聖地である講道館に入門し、翌年一月には初段、十一月には二段に昇格した。四人のなかでもっとも年長の野間清治は、新妻の左衛と二人で友人宅二階の三畳・六畳の二間に住みこんだ。彼は帝大の書記で一生を終わるつもりはさらさらなかったらしい。自室のふすまに墨筆で大きな握りこぶしを描き、『名を掴まんか。金を掴まんか。庶幾(こいねがわ)くは両者共に掴まん』と書いた。野間を衝き動かしているのは、身のほど知らずの野心である。しかし、その野心があったからこそ、彼は岩波書店や中央公論や読売新聞とは異なる、新たな大衆文化の地平を切り開くことになる」。

読み応えのある力作です。