勉強は大人がするものである、その勉強で得られるものとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2282)】
カラスアゲハの雄(写真1~3)が吸水しています。コシアキトンボの雄(写真4、5)、オオシオカラトンボの雄(写真6)、シオヤアブの雌(写真7)をカメラに収めました。シオヤアブの雄(写真8)が空中で、自分の体より大きいシオカラトンボの雄を捕らえ、着地するシーンを目撃しました。水溜まりでムクドリたち(写真10~13)が水浴びをしています。直径18cmほどのアメリカフヨウ(写真14)が咲いています。田んぼではイネ(写真15)が育っています。雨上がりの先日、聞いたことのない野鳥の鳴き声に引き寄せられ、身の丈ほどの草藪に入り込んでしまいました。下ろしたてのズボン(写真16)に染み込んだ泥が洗濯しても取れないと、女房に怒られてしまいました。家事専務取締役の女房は、捨てなさいと言うのですが、私の主張が通り、撮影散策用ズボンとして生き延びることになりました(笑)。
閑話休題、『勉強の価値』(森博嗣著、幻冬舎新書)の主張には、何度も大きく頷いてしまいました。
著者は、勉強は大人がするものである、と主張しています。「明確な目的を持つためには、少なからず人生経験が必要だろう。世の中に何があるのか。自分の可能性はどの範囲なのか。そういったことは、20年くらい生きていないと理解することができない。つまり、夢を見るためには、最低限の基礎的なことを学ぶ必要がある。そうしたうえで、自分はこれがしたい、というものを見つける。それからが、本当の勉強の始まりである。もう、そうなれば『楽しさ』というエネルギィによって、たとえ誰かに止められても前進し続けることになるだろう。しがって、勉強は大人のためのものである。子供が学校で習っているのは、大人になってから本当に楽しい勉強ができるための基礎体力をつけているようなものだ」。
「勉強で自身を高めることができると、何が得られるのかといえば、それはまず『広い視野』であり、俯瞰による客観的な『観察力』、そしてまた、あらゆるものを遠望できる『予測力』、あるいは『想像力』である。これらは、『高い』位置だからこそ可能になるもの、といえばイメージしやすい。そして、そういった視野、客観、遠望によって得られるものは、もちろん自身にとって非常に大きな価値であり、未来の利益をもたらすだろう。これも抽象的にしか語れない。なにしろ、個人によってそれぞれ『利益』が異なっているからだ。ある人は、富を得るし、またある人は人気や人望を得る。さらには、自身の安全な立場を構築する。いずれも、自身にとっての満足のいく幸せな人生に結びつくだろう。そういうものを得るための行為が『勉強』と呼ばれるのである」。
「思う」と「考える」と「気づく」は違うというのです。「『思う』とは、外部からの入力に反応して、頭の中で、なんらかの像のようなものを映し出すことである。・・・さらに、それについて『考える』となると、その像について加工をしたり、詳細に観察したり、複数の像を使って新しいものを作り出したり、といった行為になる。・・・この『思考』の過程で、ふと別のものとの関連が生じることがあって、突然、別のところから浮かび上がってくるものがある。これを『気づく』と表現している。『気づき』というのは、思ったり、考えたりしていううちに、ちょっとしたジャンプのようなものがあって、少し離れたところのものとリンクさせる行為のようだ」。
良い教育とは、どういうものでしょうか。「子供のときから、考える癖をつけることが良い教育のように、僕は考えている。謎を謎のまま幾つも抱えて、ときどき思い出す。そのうちに、あるときふと正解を思いつくことがあるだろう。そういう幸運な体験を、子供にはさせてやりたい」。
老人に対するアドヴァイスは? 「老人になっても頭を使うことの基本は、やはり自分が『楽しい』と感じる対象を素直に実行することだ、と僕は思う。ただ、TVの前に座ってぼんやりしていることが『楽しみ』だとおっしゃる方もいて、それはそれでしかたがないのではないか、としか返答できない。ぼんやりとしたいから認知症になるのでは?」。この著者は、相当辛口ですね。
「自分の楽しみを見つけることが『勉強』といえる。これが本来の『勉強』である」。
「勉強をするほど、人は謙虚になる。何故なら、世界の英知に近づき、人類の慧眼に接することで、自身の小ささを知ることになるからだ。それだけでも、勉強をする価値がある。そして、自身を見つめることの楽しさが、少し遅れて、必ず訪れるだろう。勉強は、生きる方法を学ぶことではなく、生きる人間の価値を高めるものである」。
本書を読んで、改めて、「勉強」について、いろいろと考えさせられました。