美貌は、必ずしも成功や幸福を約束するものではない・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2387)】
ジョロウグモの雌(写真1~3)が大きな放射線状の網を張っています。我が家にキンケハラナガツチバチの雌(写真5、6)、マルカメムシ(写真7)がやって来ました。
閑話休題、『美貌のひと――歴史に名を刻んだ顔』(中野京子著、PHP新書)で、とりわけ印象に残ったのは、トマス・ゲインズバラが描いた「デヴォンシャー公爵夫人」、クエンティン・マサイス画の「醜い公爵夫人」、ジョヴァンニ・ボルディーニ画の「モンテスキュー伯爵」の3つです。
●デヴォンシャー公爵夫人――
「18世紀後半のイギリス。第5代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの最初の夫人、ジョージアナ・キャヴェンディッシュ、30歳の肖像」。本書に登場する女性の中で、私の最も好みの美人です。
「男という男がジョージアナに魅せられたという。彼女に夢中になり、近づこうとしたという。そんな中、唯一、いささかの関心も示さなかったのが、誰あろう、9歳年上の夫、デヴォンシャー公爵だった。彼が心底愛したのは2頭の飼い犬で、次に愛したのは恋人、妻には男児を産むことだけを要求した。政略結婚と愛は無縁なことが多いが、それにしてもこれほど美しい妻に対してどうして何も感じないのだろうと、つい訝ってしまう。だが美貌だから愛されて当然というのは思い込みにすぎない。恵まれた容姿は誰に対しても眼福を与え、多くの視線を集めるが、それだけだ。愛や恋はその先にある。美貌はチャンスを増やしても成功を約束しない」。美貌は、必ずしも成功や幸福を約束するものではないという指摘には頷かざるを得ません。
「故ダイアナ妃が好例であろう。彼女は国民から絶大な人気を得たが、夫のチャールズ皇太子の愛を勝ち得ることはできなかった、いや、愛どころか、わずかな関心すら惹かなかった。ジョージアナの旧姓はスペンサー。実はダイアナ妃の祖先にあたる(ジョージアナの弟の直系がダイアナ)。細く血のつながる2人の美女は、はるかな時を超え、似たような立場に置かれたのだった」。悲しい奇縁ですね。
●醜い公爵夫人――
とかく女性には点数が甘い私だが、この画には思わず仰け反ってしまいました。「一体どうしてこんな妙な作品が描かれたかといえば、教訓画として需要があったからだ。醜い老婆が、もはや似合いもしない派手なファッションに身を包み、なおまだ求婚者の出現を信じているとは、滑稽きわまりない、己を知れ、恥を知れ、というわけだ。この主題は、肉体美が賞揚されたルネサンス時代に非常に好まれ、大勢の画家がこぞって取り上げた。中でもマサイスのグロテスク趣味の濃い風俗画は人気があり、本作もさまざまなヴァージョンが描かれたし、ダ・ウィンチの模写も残っている(かつてはダ・ウィンチのスケッチ画をマサイスが模写したといわれていたが、今では逆が定説となっている)」。
●モンテスキュー伯爵――
「モンテスキュー伯爵こと、モンテスキュー=フェザンサック伯マリー・ジョセフ・ロベール・アナトールは、御先祖様にダルタニャン(『三銃士』の仲間)を持つ、フランスきっての名門貴族。・・・モンテスキュー伯に創作意欲をそそられたのは、画家だけではない。文学者もまた、彼をモデルに物語を紡がずにいられなかった。2人の作家が傑作を仕上げている。ジョリス=カルル・ユイスマンスの『さかしま』と、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』がそれだ。・・・『失われた時を求めて』のシャルリュス男爵(=モンテスキュー)は、話者マルセルの目を通して描写される。生粋の大貴族シャルリュスは、傲岸不遜であると同時に、優しく繊細な一面を持ち、高い教養と高雅な趣味、圧倒的なカリスマ性で社交界に君臨していた。だがマルセルはある時、逞しい肉体労働者の前で男爵がたちまち女へと変貌する様を目撃し、彼の複雑な魅力の理由がわかったような気がする。やがてシャルリュスの悪徳(この時代、同性愛は犯罪だった)は多くの人に疑われ、孤独へ追いやられてゆく。長い時を経て再会した彼の老いさらばえようは、一族代々の悪徳と美徳が最後に生み出した奇妙な果実のようだった。――現実のモンテスキュー伯がどこまで重なり、どこから重ならなくなっているかはともかく、彼の存在がなければフランス文学におけるこれら強烈な登場人物は誕生していなかっただろう」。因みに、この「女へと変貌する」は、同性愛の女役を務めることを意味しています。
「モンテスキュー伯の肖像画はどれも、彼のファッション・センスの良さを証明している。・・・1921年に66歳で没」。
いろいろなことを考えさせられる一冊です。