榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ひねくれた著者のひねくれた著作を、ひねくれた私が読むと、どうなる?・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2417)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年11月29日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2417)

ベゴニア・セントフローレンス(写真1、2)、キク(写真3、4)、ヤツデ(写真5)、サザンカ(写真6)が咲いています。

閑話休題、ひねくれた(これは、飽くまで、褒め言葉です)著者のひねくれた著作に対しては、我々読み手もひねくれることが許されると、私は密かに考えています。

死にたいのに死ねないので本を読む――絶望するあなたのための読書案内』(吉田隼人著、草思社)の著者の意図には敢えて目をつぶり、私の勉強になったことのみを挙げておきます。

●デカルト――
「デカルトが関係をもった女中ヘレナとその娘フランシーヌについてもう少しアカデミックなアプローチを望まれる向きには、現在もアダン=タヌリ版としてデカルト研究の底本とされる全集編纂者のひとりポール・アダンの『デカルトと女性たち』(石井忠厚訳、未来社)やデカルトの人物像に迫った竹田篤司『デカルトの青春』(勁草書房)を薦めておく」。早速、この2冊を「読むべき本リスト」に加えました。

●木田元――
「闇屋としてときにヤクザまがい、詐欺まがいの仕事にも手を染めながら文学書を濫読、やがて闇の仕事でもうけた金を元手に鶴岡の農林専門学校(いまの山形大学農学部)を経て東北大哲学科に進んでハイデガーを読むに至る『木田元物語』は活劇調で痛快ではあるけれども、何度も同じような文章を読めばさすがに食傷するというものだ。・・・のっけから斜に構えた感想になってしまったけれど、そうはいいつつ、ぼくは今でも手持ちぶさたになると木田元の自伝もののうち『闇屋になりそこねた哲学者』を、それこそ何度目どころではない、何十度目だか何百度目だかわからないが、とにかくやたらに読み返している。それはべつに武勇伝を読みたいからでもなければ、四年間でドイツ語・ギリシャ語・ラテン語・フランス語を習得した学習法をまねるつもりでもなく、回想のなかに生き生きとした姿で登場する東北大周辺の哲学者たちの群像に惹かれるからだ」。この本も、「読むべき本リスト」に加えたことは言うまでもありません。ただし、木田元の武勇伝に興味が湧いたので。

●九鬼周造――
「<いつも皮相的と見えるのは、ギリシア人たちがシシュフォスの神話に中に劫罰を見たことである。シシュフォスが岩塊を頂上近くまで転がしていくと、岩は再び落ちてしまう。そしてかれはこれを永遠に繰り返す。このことの中に不幸があるだろうか。罰があるだろうか。私は納得しない。私は信じない。すべてはシシュフォスの主観的態度に懸かっている。かれの善意志、つねに繰り返そうとし、つねに岩を転がそうとする確固とした意志は、この繰り返しそのものの中に全道徳を、したがってかれのすべての幸福を見出すのである。シシュフォスは不満足を永遠に繰り返すことができるゆえに幸福でなければならない。これは道徳的感情によって夢中になっている人間なのである。かれは地獄の中にいるのではなく、天国にいるのである。すべてはシシュフォスの主観的見地に依存する>。かっこいい文章である。カミュの『シーシュポスの神話』(新潮文庫)に先駆けて、この神話の積極的読み換えを試みているところなど、素晴らしい先駆性ともいえる」。< >部分は、九鬼周造の『時間論 他二篇』(岩波文庫)の「時間の観念と東洋における時間の反復」の一節です。この本も、「読むべき本リスト」に加えました。