29年ぶりに『謎の古代日本史』を再読したら、当時の感激が甦ってきた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2534)】
サクラソウ(写真1~7)、ユキヤナギ(写真8、9)、ボケ(写真10)、フサザキズイセン(写真11)、ヒマラヤユキノシタ(写真12)が咲いています。キンカン(写真13、14)の実が鈴生りです。
閑話休題、29年ぶりに『謎の古代日本史』(鈴木武樹著、廣済堂文庫)を再読したら、鈴木武樹の卓越した古代日本史理解に驚愕した当時の感激が生々しく甦ってきました。
例えば、邪馬壹国の位置については、「邪馬壹国には、伊支馬・弥馬升・奴佳鞮などの官があって、戸数は7万余だというが、3世紀の前半においてこれだけの戸数を有する地域があるとしたら、それは、考古学的には、九州島の中部から北部にかけてのどこかか吉備地方であって、近畿地方では絶対にありえない。となると、この女王国の所在地は、有明海の周辺か福岡県の京都(ミヤコ)郡地方か、そのいずれかだとしかいえないようである」と断言しています。
「倭の五王」に関し、「413年の『倭夷』は九州島にいて460年代以後の『武』王は近畿地方の大王なのであるから、倭国の都は、418年以後460年前後までのあいだに、九州島から近畿地方に移っていなければならない。しかも、『武←興←済』の三王は、『日本書紀』の内容からして近畿地方にいたことは確かであるから、九州島の北部から近畿地方への移動は,済王の即位した440年代までに行なわれていなければならない」と推考しています。
そして、418年から440年代の間に九州の北部から近畿地方に入った王者の名は「イザサワケ」でなくてはならないと主張しています。「418年に未斯欣に逃げられて提上を殺した九州倭国の王イザサワケは、新羅の報復を恐れて、東に逃げ、420年前後に、山東(ヤマト)の豊ノ軽明ノ宮で即位した。それとともに、イザサワケは『讃』という名前で南宋に使者を送って、新羅による脅威を中国との結びつきによってのぞこうとした」。