榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

戦国時代の「天下人」は、三好長慶→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と考えるべきという主張・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2653)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年7月22日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2653)

ムラサキバレンギク(エキナセア・プルプレア。写真1~5)、その‘ホワイト・スワン’という品種(写真1、4、5)、ヤグルマハッカ(モナルダ・フィツローサ。写真6、7)、フロックス・パニキュラータ(宿根フロックス、クサキョウチクトウ。写真8~10)、ヒメヒオウギズイセン(写真11)が咲いています。

閑話休題、『三好一族――戦国最初の「天下人」』(天野忠幸著、中公新書)では、日本史を考え直さなければならないほど重大なことが指摘されています。

戦国時代の「天下人」は、織田信長→豊臣秀吉→徳川家康という考え方が定説化しているが、信長の前に、三好長慶(ながよし)という先駆者がいたというのです。

「(主家の)細川氏に代わって台頭する三好氏は、在京守護(細川氏)の近習・側近層から出た。また、畿内近国の支配方法は、三好氏が内藤氏・松浦氏・松永氏を一国単位で支配担当者に指定し、彼らを後見することで、三好氏の勢威を背景にして強制的にその国の全ての国人を彼らの家中に包括させる一方で、彼ら自身も上位の三好氏への依存を余儀なくさせるというものであった。そもそも戦国時代で初めて足利将軍家を擁さず首都を支配するに至った三好氏に対して、足利将軍家の権威や将軍による承認を欲していたのは、地方の大名たちであった。彼らは新政権など望んでおらず、特に下剋上により主家を乗っ取ったり、追放したりした者ほど、幕府の秩序に位置づけられることを望んでいた。『天下』と称された畿内は、経済面だけでなく、政治面においても先進的であったと見るべきである」。

「(将軍)足利義輝は当然ながら、三好長慶が(足利)義維のように自分に成り代わる存在とみなさなかったため、怠慢を繰り返した。その結果、禁裏の修理、改元、南朝勢力の勅免、明使への対応など、長慶は北朝天皇家の守護者や日本国王としての役割を奪っていくが、それは天皇や朝廷の認めるところとなり、将軍なしでも時代は動き始める。かつて(曽祖父の)三好之長は畿内の平和を乱すと非難されたが、長慶は畿内の平和維持を担うと宣言する立場へと成長したのだ。・・・極端な言い方をすれば、長慶が将軍義輝を近江に追放していた5年間と、義維が義輝を討ち果たしてから(足利)義昭が上洛するまでの3年間の2回、幕府は事実上滅亡し、そのたびに再興されたのである。その後の戦いにおいても、三好義継や三好長逸が足利将軍家を擁せず戦う一方、織田信長が義昭や(足利)義尋の親子を推戴して戦おうとする姿を見る時、三好一族は日本の武家でいち早く足利将軍家の軛を断ち切っていたと言えよう。また、長慶は明使に対応し、義輝の日本国王としての活動を封じた」。

「戦国末期まで根強く残っていた家格秩序についても、陪臣に過ぎなかった三好一族が高位の家格の名跡を継ぐことなく、長慶・義興・長逸と宿老の松永久秀が将軍義輝と同じ従四位下に叙せられ、長慶・義興・久秀が天皇家に由緒を持つ桐御紋を拝領し、将軍家の象徴たる御小袖の唐櫃を下賜されたことで、大きく変容していく。信長もまた桐御紋を拝領し、足利将軍家の家長が任じられた右近衛大将に就くなど、足利将軍家の継承を意識していた。信長については、本能寺の変の直前に朝廷が太政大臣か関白か将軍への就任を求めたとされる三職推任ばかり注目が集まる。しかし、本願寺を屈服させ畿内を平定した後ですら、義昭を『西国之公方』と認め和睦しようとし、足利義稙や(足利)義澄に前例があるにもかかわらず、義昭の将軍職を剥奪できていない。現実では、歴代の足利将軍家を超える官位に就いた訳でもない。足利将軍家との関係に苦悩し続けたのが実態である」。

「三好一族は地方の大名同士の利害調整を行う論理を持ち得なかったが、出雲尼子氏や上総酒井氏の領内の問題に介入し、その宗教政策を覆すなど、より過激な点も見受けられ、中央政権としての自負がうかがえる。・・・信長は将軍義昭との戦いを終結させることができないまま、明智光秀に討たれたのである」。

「三好氏の歴史的役割から戦国時代を見た時、三好長慶が足利将軍家を擁立せず、京都や畿内を支配し、足利氏が相対化された天文22(1553)年から、大坂の陣により、徳川氏の絶対化が完成する慶長20(1615)年までの半世紀を新しい秩序を生み出す『三好・織田・羽柴時代』として、時代区分できるのではないだろうか」。

もう一つ、見逃すことのできない重要な指摘がなされています。「著者は、松永久秀が三好氏を乗っ取ったという一次史料を見たことがない」。「一次史料では、久秀が三好氏を壟断した証拠はない。また(三好)三人衆が成立したのは、久秀が失脚した後のことであり、長慶時代には(三好)長逸と久秀の間に対立点は見えない」。「長慶、(三好)義興、(三好)義継の三代に仕え、主家を盛り立ててきた松永久秀は、天正2(1574)年12月に剃髪して『道意』と号し、表舞台から姿を消した」。

歴史に画期的な視点を持ち込んだ、見逃すことのできない一冊です。