榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

歴史好きには見逃せない一冊だ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2659)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年7月28日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2659)

群れているムクドリ(写真1、2)の中には、多くの若鳥が混じっています。カルガモ(写真3)の母親の後ろに2羽の雛がぴったりくっついて泳いでいます。ヤマユリ(写真4、5)、オニユリ(写真6~10)、キバナコスモス(写真11)、コスモス(写真12)、インカーヴド・カクタス咲きのダリア(写真13)が咲いています。

閑話休題、『新発見でここまでわかった! 日本の古代史――「日本最古の人類」の石器は大陸由来の特徴を持っていた!』(瀧音能之監修、宝島社・TJ MOOK)のおかげで、知らなかった情報に触れることができました。

●日本最大級の縄文集落遺跡での暮らし――未開のイメージを覆した! 三内丸山遺跡の大発見
「現存する日本最古の正史『日本書紀』には、東北地方に関する記述はほとんどない。そのため、古代の東北は『未開の地』というイメージがあった。しかし、その常識を覆したのが、平成4(1992)年に発見された青森県青森市の三内丸山遺跡である。縄文時代前期から中期(約5900~4200年前)に巨大集落が形成され、最盛期には約500人が住んだといわれる。・・・遺跡からは竪穴住居跡や大型竪穴住居跡、墓、盛り土、掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、道路跡などが確認されている。また、国内では最多となる2000点以上の土偶や、漆塗り木製品、編布などが発見されてきた」。

●考古学上の歴史区分
「考古学では、人類の歴史を『石器時代』『青銅器時代』『鉄器時代』と区分している。石器時代は、打製石器を用いた『旧石器時代』と、磨製石器を使用した『新石器時代』に分けられる。ただし、日本では新石器時代の呼称はあまり用いられず、旧石器時代の後は『縄文時代』『弥生時代』と呼ばれる」。

●灌漑の技術は早い段階から普及していた!――じりじり遡る日本の稲作の起源 最新の説は「縄文時代中期から」
「日本列島で稲作が始まった時期は、かつては弥生時代と考えられていた。しかし、近年の発掘によって、日本列島における稲作の起源は縄文時代中期まで遡る可能性がある。縄文時代と弥生時代の境界は、さらに不分明になりつつある。通説の見直しのきっかけになったのが、板付遺跡(福岡県福岡市)など、北部九州での発掘成果である。縄文時代晩期の土器をともなう地層から灌漑水田跡が見つかったため、従来の考え方が見直されることになった。他にも、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)では昭和55(1980)年から始まった発掘調査で、日本最古の水田跡や真っ黒な炭化米、農具、石包丁などが検出されている」。

●そろそろ出るか? 邪馬台国論争の決定打―― 一体どれが親魏倭王の鏡なのか? 卑弥呼に贈られた「銅鏡」の行方
「邪馬台国のもう一つの有力候補地である九州でも、弥生時代の鏡が発見されている。大分県日田市のダンワラ古墳で出土したとされる金銀錯嵌珠龍文鉄鏡もその一つで、金銀を象嵌した鉄鏡は、日本国内ではこの鏡しかない。この鏡が『卑弥呼の鏡』ではないかと言われ出したのは令和元(2019)年。魏の創始者・曹操の墓を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌氏が、『曹操の墓から出土した鏡が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に酷似している』と述べたのがきっかけである。金や銀をはめ込んだ象嵌鉄鏡は皇帝など高位の人物が持つ権威の象徴で、『日本でこのような鏡が持てるのは、邪馬台国の女王・卑弥呼ぐらい』という見解を示す研究者も少なくない。そのため、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を『魏の皇帝から下賜された鏡』と見る向きもあるのだ」。

●朝廷の政治が大混乱に陥ったパンデミック――猛威を振るった天然痘で藤原四兄弟も帰らぬ人に
「藤原不比等の死後、跡を継いだのは4人の子供たちだった。長男の武智麻呂(南家)、次男の房前(北家)、三男の宇合(式家)、四男の麻呂(京家)は、政治の主導権をめぐって皇族の長屋王と対立。神亀6(729)年、長屋王は謀叛の疑いで自害に追い込まれ、四兄弟の妹で聖武天皇に嫁いでいた光明子が皇后となった。・・・しかし、天平7(735)年頃からはやり出した天然痘が、四兄弟の政権を終わらせることになる。・・・(天然痘の)猛威は藤原四兄弟にも及び、天平9(737)4月17日に次男の房前が最初に亡くなり、7月13日には四男の麻呂、25日には長男の武智麻呂が亡くなった。残る三男の宇合も8月5日に没し、藤原四兄弟の政権は終焉を迎えた。立て続けに亡くなったので、人々は長屋王の祟りではないかと噂したという」。

●尾山遺跡の周辺は道昭の活動拠点だった?――三蔵法師の弟子・道昭とゆかりが深い瓦窯跡の発見
「道昭は遣唐使の一員として唐に渡り、玄奘三蔵から法相教学を学んだ。帰国後は飛鳥寺の隅に禅院を建て、日本に法相宗を広めた、・・・東大寺の大仏造立に貢献した行基は、道昭の弟子といわれる」。

●国産品の宝庫だった「シルクロードの終着点」――正倉院に伝わる敷物「花氈(かせん)」はトルコ羊毛製か?
「令和2(2920)年6月には、フェルト状の敷物「花氈」を羊毛鑑定士が分析したところ、中央アジアに多く生息するトルコ羊の毛と近い特徴があることが発表された。こうした点から、この敷物は8世紀に中国か中央アジアから輸入されたとみられる」。

●征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)を平定――朝廷による東北侵攻と奥州藤原氏の登場
「(桓武天皇は)延暦16(797)年に坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、延暦20(801)年に東北遠征を敢行する。(蝦夷の族長)阿弖流為(あてるい)は翌年に降伏し、河内国で処刑された。降ったのではなく、和睦交渉のために向かう途中で討たれたという説もある。『日本書紀』には、田村麻呂が阿弖流為の助命を嘆願したが、聞き入れられなかったという記述がある」。

●朝廷に仕えた武芸集団が地方で武士化する――武士のルーツは朝廷に仕えた武芸集団だった!
「(保元の乱に)続く平治の乱で勝利した(平)清盛は多くの荘園や知行国をたくわえ、全盛を築いた。近年、この平氏政権が最初の武家政権であるという見方が一般的になっており、平氏の本拠である六波羅にちなんで『六波羅幕府』と呼ぶ研究者もいる。平氏政権は傘下の武士団を地方官に任じて地方の支配強化をはかるなど、鎌倉幕府の守護・地頭設置に先んじた試みを行っていた」。

歴史好きには見逃せない一冊です。