松本清張は、森鴎外、菊池寛を高く評価したが、夏目漱石、志賀直哉の作品は認めていなかった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2702)】
ムラサキシジミの雄(写真1、2)、ダイミョウセセリ(写真3)、コミスジ(写真4、5)、アオスジアゲハ(写真6、7)、キリギリス科の一種の幼虫(写真8)をカメラに収めました。ヒャクニチソウ(ジニア。写真8~12)が咲いています。
閑話休題、『松本清張推理評論集1957~1988』(松本清張著、中央公論新社)で、とりわけ興味深いのは、●松本清張の小説書きの指南書となった『小説研究十六講』、●清張の森鴎外に対する心酔ぶりと、鴎外作品の推理小説的可能性、●菊池寛に対する高評価と、夏目漱石、志賀直哉への辛口評価――の3つです。
●『小説研究十六講』を読んだころ――
「この本を私が夢中になって読んだときは十六歳か七歳のときであった(初版大正十四年)。当時、私はある会社の給仕をしていた。仕事の暇なときはきたない机の上で隠れ読みし、使いで自転車で走るときも、こっそり片手に抱えた。四六判五〇〇ページで、隠れて持ち出すには大きすぎた。一ばん好都合なのは銀行に使いに行くときで、『××会社さアん』と窓口で呼ばれるまではゆうゆうと客待ちの長イスに腰かけて大ぴらで読むことができた。銀行の方でもっと手間どってくれたらいいと思った。この本に限らず、そんな読書法をやっていたが、この『小説研究十六講』が一ばん記憶に残っている。・・・本書は氏の壮年期に書かれたもので、文章の緊張感、引用の豊富さは自然と当時の氏の気力を表現している。ずっと後年になって、私は図らずも小説書きになったが、少年のころに受けた本書の感化は今でも忘れられない」。敬愛する清張を、それほど夢中にさせた本とあっては、読まずに済ますわけにはいきません。
●鴎外の暗示――
「鴎外の小説を推理小説として見做すのには奇異に思う人が多かろう。・・・推理小説は、もっと生活を書きこまねばならない。犯罪はどうして行われたかを書くと共に、何故行われたかも同じ比重で書くべきである。犯人の動機は、われわれの奥に持っている心理から索(ひ)き出して貰いたい。トリックの意外性はまことに結構であるが、生活に密着したものにしたい。こうして作者が推理小説のつもりではじめても、人間像を美事に描き切れば、も早、いわゆる純文学も推理小説も区別は無いであろう。少なくとも、愚にもつかぬ身辺雑記の類の私小説よりは、ずっと文学である。近ごろ心理スリラーという言葉をきく。これは心理的なサスペンスを特殊に強めたものであろう。まことにわれわれの日常生活には、心理的な危機が満ち満ちている。この部分を截(き)り取って拡大して見せることも、これからの推理主節の行く道の一つの方向であろう。その意味で、ここに択び出された鴎外の四つの作品は暗示的である。・・・この四つの短篇(『かのように』、『魔睡』、『佐橋甚五郎』、『魚玄機』)は、図らずも鴎外の作品のそれぞれの特色をならべて面白いことになった。推理小説を書く上にとって、鴎外のこれらの作品は、なかなか暗示的である」。図らずも、清張の推理小説論が展開されているが、「愚にもつかぬ身辺雑記の類の私小説よりは、ずっと文学である」という件(くだり)に清張のプライドが覗いています。
●菊池寛の文学――
「菊池(寛)はあくまでも生活経験派のリアリストです。だから(夏目)漱石を認めていません。芥川(龍之介)や久米(正雄)が漱石を崇拝するのが不思議でならない、芥川は本気に漱石の作品を認めていたのかいちど訊いてみたかったといっています。漱石の『それから』などは、あの中に出てくる書生の風格やものの言いかたなどで読者の興味を釣っているとしか思えない。かんじんの事件はつまらないんだと菊池は書いています。しかも、なぜあとで姦通までする女を友人にゆずったのか、また姦通したあとでどうなるのか、この二つの肝腎なことを描いていない。それに作中の人物の代助の姉も恋人も、同じような感じの女性でほんとうに書けているとは思えない。菊池はそう言うのです。同じく長篇の『こころ』なども、『私』が『先生』と知り合いになるのに、どうしてあんなに数十枚も書かねばならないのか、どうしてあんな知り方をしなければならないのか、それが解せないと菊池は評する。菊池によれば、夏目漱石の長篇は『奇警な会話や、作品の中に出て来る哲学的な思想や物の見方で、多くの読者が煙に巻かれている』というのです。漱石の『こころ』についていえば、わたしは菊池評とだいたい同感です。・・・批評家が『こころ』を漱石晩年の傑作のように言っているのがわたしには不可解です。要するに漱石の作品は、実生活の経験がなく、書斎に閉じこもって頭で書いたものだからです。田山花袋は『漱石の長篇は、おれなら三十枚で書ける』と言ったそうですが、自然主義派の花袋は、漱石の作品の幼稚さ、脆弱さを知っていたのかもしれません。漱石には女というのがまったく書けなかったのです。このことは漱石を崇拝した芥川龍之介の作品についても同様のことが言えます」。
「志賀直哉なんかは、『小説の神様』と言われていて、あの人の『暗夜行路』は高い評価を受けてきましたけどね、私から見ると、これはどうにもならん作品だということになる」。
清張の本音が窺える貴重な一冊です。