若き日の松本清張に大きな影響を与えた『小説研究十六講』を手にした・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2714)】
タマスダレ(ゼフィランサス・カンジダ。写真1)が咲いています。コムラサキ(写真2)が実を付けています。アカジソ(写真3)が育っています。
閑話休題、若き日の松本清張に大きな影響を与えた『小説研究十六講』(木村毅著、恒文社)を手にしました。
巻頭に清張の文章「葉脈探究の人――木村毅氏と私」が置かれています。「『小説研究十六講』を買ったのは昭和二、三年ごろだったと思う。・・・私は高等小学校を出てすぐにある会社の給仕になっていたが、時間を見つけてはこれに読み耽った。たとえば銀行にお使いに行きそこで待たされている間もこれを開いた。自転車で使いに走りまわるのに、五百ページの本は少々重くて厄介だったが、これを読むのがそのときのただ一つの愉しみだった。それまで私は小説はよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて立証し、創作の方法や文章論を尽したこの本に、私は眼を洗われた心地となり、それからは、小説の読みかたが一変した。いうなれば分析的になった」。
「そのころの私がこの書で最も教えられたのは、十六講中に第七講『プロットの研究』、第九講『背景の進化とその哲学的意義』、第十講『視点及び基調の解剖』、第十一講『力点の芸術的職能』である。これら項目の名を見ても、その科学的な分析が察せられよう。明治十八年に出た坪内逍遥の啓蒙的な『小説神髄』から四十年を隔てて、ここにはじめて近代的小説作法と小説鑑賞の理論書を得たのである。その引用には十九世紀末までの東西古今の代表作をえらぶなどして、私には世界文学史の概観を教えられる思いであった。高遠な概念的文学理論も欠かせないが、必要なのは小説作法の技術的展開である。本署にはこれが十分に盛られていた」。
敬愛する清張が非常に勉強になったという各講を読まないで済ますわけにはいきません。
●プロットの研究
「(R・L・)スティーヴンスンの言葉を引用したいと思う。彼は『謙虚なる抗議』と題する元気のいい論文において、小説作者に有益な忠告を呈した後、結末にかく言っている。『要するに作者は一切のことの根幹として、こう考えねばならぬ。すなわち小説とは、その精密さによって価値判断を附せられるべき人生の謄写ではない。それは人生のある側面、ある角度の単純化である。意味ある単純化を行なったかどうかによって、小説の価値の高下は分れてくる。たとえば大作家が大きな動機を捉えて総則しているのに対する時、我等の観察し、賞讃するのは、たいていその表面上の複雑さだが、しかし底を割ってみると、常に単純化を手法としており、作の傑れた点もまたこの単純化の上にあるという真理は、いつでも決して変らない』。存在に深い意義を与えるという方面からみていけば芸術は『単純化』ともいえるが、無連絡な雑多な事件の中から論理的連絡あるもののみを抽出してくる側から観測すれば、単純化こそ芸術手法の神髄である。あらゆる芸術創作とはそれぞれの道において、物象を単純化することである。あらゆる芸術家が先ず、自分の視野に映じてきた物象の細目の紛糾の中から重要な素材だけを選び出してきて、つぎにこの素材を一定の鋳型にはめこむ事によって、件の単純化を行なう。そして小説家にあっては、人生の中から重要な論理的関係ある事件を選択して、これを因果の鋳型にはめてこの単純化をなすのである」。
●背景の進化とその哲学的意義
「ドストエフスキーの『罪と罰』の中なるラスコーリニコフが居室の描写などを見ると、それはラスコーリニコフの行為の一部をなさずして、その性癖の一部をなしていることが分る。こうして背景を人物の性癖の一部として描出した手法は、恐らく英のディケンズなどに始まると言ってよかろう。背景の描写に至るまでそうであるかどうかはにわかに断じ難いが、ドストエフスキーがディケンズの影響を多分に受けたことは、すでに批評家達の認むるところである」。
「以上に考察した範囲における背景の装置は、本質からいって芸術的であって、哲学的ではない。しかし輓近に至って作家の中に、単に人物や事件を例示するためにのみ背景を用うるのでなく、その人物や事件を決定するためにこれを用いる者が生じてきた。19世紀の社会学者は、外界の境遇を、行為の第一動機として認め、環境を、性格に最初に影響をおよぼすものとして認めた。輓近の作家には、背景を使用するにこの哲学的前提を適用したのがある」。この箇所が、清張の社会派推理小説誕生に大きな影響を与えたのではないか、と私は睨んでいます。
●視点及び基調の解剖
「与えられたる事件の系列も、プロットの組織も、背景の配置も、物語の調子も、一体『それを誰が物語るのか?』という一疑問によって締め括られる。もっと平たく言えば、その物語は誰の話であるか? ということが土台となって、その上に物語は建設される。視点とはすなわちその話者の立場の義である」。
●力点の芸術的職能
「芸術的に傑れた作品においては、強調法――力点の設定が絶えず用いられている。今、一目の下に納得し得るようにここに並べると、強調法の主なるものは、A=位置――書き出しと終結、B=中断、C=均衡――正と逆、D=繰り返しおよび平行法、E=対偶、F=クライマックス、G=驚異、H=焦慮、I=運動の模倣 であって、これらがあるいは単独に、あるいは結合して使用せられている。力点の意義と必要は自明のことである。力点設定の手段は単純である。創作を志す人は場合に応じて、これらを適宜に生かして用うべきであろう」。
少々分かり難い「対偶」と「運動の模倣」は、このように説明されています。「対偶的力点。白と黒、動と静。明と暗、幸福と悲惨というように、対偶を用いて強調することは、あらゆる芸術に行なわれている。小説においてもお互いに相反し、お互いに対照をなすような性格を撰びだしてきて、著しき効果を収めている例は枚挙に遑のないほどである」。
「運動の模倣による力点。物語の力点の設定は、運動を模倣することによっても達成される。迅速に生起したことは簡潔な言葉と急調のリズムをもって写し、徐々として生じたことは緩調をもってこれを写せば、そこに一種の迫真性と強調味とが生ずる」。
若い時に本書を読んでいたら、清張とまではいかなくとも、それなりの小説家になれたかもしれませんね。