ニーチェが道徳批判、キリスト教批判より重要と考えていたこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2791)】
ムクドリ(写真1)、水浴びするハシブトガラス(写真2~5)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は11,302でした。
閑話休題、『弱いニーチェ――ニヒリズムからアニマシーへ』(小倉紀蔵著、筑摩選書)には、心底、驚かされました。フリードリヒ・ニーチェについては、著作から、その思想を読み解こうとするのが常道なのに、小倉紀蔵は、遂に著作に書かれなかった思想こそニーチェが一番主張したかったことだというのですから。
「ニーチェが残した本や草稿は数多いが、本書はそのなかでも、1880年代に書かれた遺稿をもっとも重要視する。この草稿群より重要な文献はほかにないと断言したい。一般的に人気が高くよく読まれている『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』『道徳の系譜』なども重要であるのはたしかだが、ニーチェの思考の最終段階を示しているのは、やはり1880年代の草稿群であり、のちにカール・シュレヒタが3巻本のニーチェ選集を編んだときに『80年代の遺稿から』というタイトルをつけられた膨大なメモ群である」。
「ニーチェといえば道徳批判、キリスト教批判だという像が強く固定化されすぎている。もちろんニーチェが道徳批判をラディカルに遂行したのはたしかであって、なんぴともそのことを否定はできないわけだが、しかしそれはニーチェの半身であったにすぎない。むしろ、ニーチェが最終的に提示したかった方向性は、<動物としての人間>の哲学であり、それを彼はかなり早い段階から書き始めていたのである。しかしいったんその方向性を休止し、ほかの方向性(つまり道徳批判)の書物を何冊か書いて、また<動物としての人間>に戻ろうとしたときに<昏倒>してしまった。だから、書かれた時期が80年代の前半だとしても、それはニーチェが最終的にまとめようと思った哲学の萌芽期的な思考だったのであり、それこそがニーチェの哲学の最終段階だったと考えても問題はないのである」。
「<人間としての人間>という大前提を疑うこと、そしてそこで<人間として>といわれているものは、超越性や普遍性や道徳性などという強い観念で鎧われていることを認め、そこから離れること、そのことを<動物としての人間>は意味している」。
刺激的な本書は、ニーチェに関心を持つ人間にとって見逃せない一冊です。