榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

常識から外れた極論をあっさりひっくり返し、期待していた読者に肩すかしを食わせるルソー・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2953)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年5月20日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2953)

東京・練馬の石神井を巡る散歩会に参加しました。石神井城跡(写真1、2)、石神井氷川神社(写真3~6)、三宝寺(写真7~9)、三宝寺内の勝海舟邸の長屋門(写真10、11)、道場寺(写真12~14)、観蔵院(写真15~17)、縄文時代の竪穴住居跡(写真21、22)、キャベツ畑(写真23)は新緑に包まれています。因みに、本日の歩数は20,072でした。

閑話休題、『今こそルソーを読み直す』(仲正昌樹著、NHK出版 生活人新書)によって、ジャン=ジャック・ルソーをより深く理解できるようになりました。

●ルソーという思想家が、社会契約の本質としての一般意志とともに、自然状態にあってエゴイズムを知らない「自然人」を描いたことは確かである。しかし、そのルソー自身が、その主要著作の随所で、社会状態に生きている「我々」が自然状態に完全に回帰するのは不可能であることを説いたこともまた確かである。

●バブーフやマルクス主義者、レヴィ=ストロースなどに限らず、人間の「自然本性」として、「外観」に汚染される以前の――あるいは「外観」によって深層へと抑圧されている――「哀れみ」のようなものを想定し、そこから理想の社会を構想しようとする社会思想・理論は、程度の差こそあれ、『人間不平等起源論』の申し子と言える――ルソー自身はそうした行動へとけしかけることをしなかったわけだが。

●(『人間不平等起源論』の)7年後に刊行された『社会契約論』は、まさに一般意志の成立に照準を合わせながら、「社会契約」の本質を明らかにする著作になっている。『人間不平等起源論』が、純粋の「自然状態」を推論によって描き出し、それを基準に社会を批判するという構成になっていたのに対し、『社会契約論』は、「社会契約」が達成すべき目的から見て、それがどのような内容・形式になるべきか論じていく構成になっている。つまり、理想の「社会」を推論によって描き出し、いかにしてそれに到達すべきかその方法を探っているわけである。

●自然状態の野生人としての「自由」を失う代わりに、市民的状態に適合した「自由」を得ることが可能になる。「自然的自由」と違って、「市民的自由」は無制約ではなく、一般意志あるいは、その現われである「法」によって制約を受けているが、その代わり、「法」による保護を受けることになる。自然状態のままだと、各人は無制約に自由を行使できるものの、誰が何に関してどのように自らの自由を行使するか分からず、お互いの自由が真正面から衝突し、ホッブズ的状態に陥る恐れが常にある。法による制約を受け入れることによって「私」は、その制約の範囲内で、自らの正当な「権利」として――他者の暴力的干渉を恐れることなく――「自由」に振る舞うことができるようになる。・・・このように、自然的自由と市民的自由をはっきりと区別し、前者をいったん論理的に否定したうえで、改めて後者を確立しようとするところにルソーの社会契約論の特徴がある。

●私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合し得るか、という問題だ。・・・現実的な解決策として考えられるのは、一定の条件の下で、各人が「私たちみんなの意志=私の意志」と見なすという規則をあらかじめ定めておくことである。ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する「私たちみんなの意志」としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自律と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。

●『社会契約論』のルソーは、「自然的自由」と「市民的自由」を区別し、あくまでも後者の視点から「社会契約」を追求すべきであるという立場を明示している。

●過激なくせに、どっちつかずの態度を取るところが、ルソーの思想の奇妙な魅力になっている。

本署のおかげで、著者の言う「純粋に思弁の世界で思考し続け、常識から外れた極論に到達した挙げ句、その結論をあっさりひっくり返し、期待していた読者に肩すかしを食わせるルソー」の姿が見えてきました。