東京・新宿の歌舞伎町の歴史は、なかなか興味深いぞ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3012)】
早朝、水撒きをしていた我が家の庭師(女房)が駆け戻ってきて、「ニホンカナヘビ(写真1)がいるわよ!」と。ハンゲショウ(写真2)、ヘメロカリス(写真3)、ダリア(写真4)が咲いています。
閑話休題、『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史――進化し続けるカルチャータウン』(橋口敏男著、PHPエディターズ・グループ)には、興味深いことが記されています。
●明治維新により、内藤新宿の宿場町は新宿遊郭に、内藤家の屋敷は新宿御苑に。
●明治14(1881)年、新宿御苑に鴨猟の池が設けられ、明治天皇や皇太子だった大正天皇がたびたび行幸した。
●明治から大正にかけて、新宿御苑には動物園もあった。ラクダ、シカ、クジャク、タカ、カンガルーなどが飼育されていた。
●明治38(1905)年~39年、島崎藤村が大久保村(現・歌舞伎町2丁目)に住み、ここで『破戒』を書き上げた。
●歌舞伎町の礎を築いたのは、峯島喜代という女性実業家。
●大正7(1918)年、峯島喜代が東京府立第五高等女学校設立に向け、東京府に50万円(現在の10億円に相当)を寄付。大正9年、府立第五高女が現・歌舞伎町1丁目に開校。その敷地3400坪は峯島家が東京府に無償で貸与。府立第五高女は昭和20(1945)年の空襲で全焼し、中野区に移転。現在は都立富士高等学校・附属中学校となっている。私事に亘るが、都立富士高は私の母校。
●孫文の大スポンサーは、大久保町(現・歌舞伎町2丁目)の日本映画界の風雲児・梅屋庄吉。
●第二次世界大戦前の昭和の時代、現・歌舞伎町2丁目は高級住宅地で、3人の総理大臣――岡田啓介、平沼麒一郎、阿部信行――が住んだ。
●昭和4(1929)年~11年、鈴木三重吉は現・歌舞伎町2丁目に住み、ここで雑誌「赤い鳥」を編集・出版した。
●昭和2(1927)年、田辺茂一が現・新宿3丁目に紀伊國屋書店を開業。田辺は、子供の頃に、日本橋丸善で見た本が並ぶ姿に感動し、自分も絶対本屋をやりたいという夢を抱いた。
●昭和29(1954)年、西武新宿駅前に歌声喫茶「灯」が開業。