内モンゴルで行われた中国共産党による大虐殺の酸鼻を極めた実態・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3020)】
朝9時から2時間に亘り、ヒグラシの羽化(写真1~10)をじっくり観察しました。チョウトンボ(写真11~14)、クロアゲハの雄(写真15)をカメラに収めました、キツネノカミソリ(写真16)、ハス(写真17)が咲いています。因みに、本日の歩数は11,619でした。
閑話休題、読書クラブ仲間の大原裕氏に教えられた証言集『墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(楊海英著、岩波現代文庫、上・下)、『続 墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(楊海英著、岩波書店)を手にしました。
この3冊のおかげで、●中華人民共和国の内モンゴル自治区(内モンゴル)と、モンゴル人民共和国(現・モンゴル国、外モンゴル)という2つのモンゴルが存在すること、●毛澤東の文化大革命が内モンゴルから始まったこと、●内モンゴルで行われた中国共産党による大虐殺の酸鼻を極めた実態――を知ることができました。
「日本は満洲国を1932年に創った。満洲の広大無尽の黒い土に満足しなかった日本はさらに北上してモンゴル人民共和国やシベリアにも進出しようとした。内モンゴルの草原ノモンハンで1935年夏にソ連・モンゴル聯合軍と一戦を交えて大敗を喫した日本はその後、軍を中国全土に展開するようになった。拡大路線は少しずつ帝国の自壊につながった。・・・草原に進出していた日本人たちは1945年秋に列島にもどったが、モンゴル人たちの領土は分断された。一部がソ連の衛星国となり、一部は中国に占領されて自治区となった」。
「物事を常に善悪という二項対立で思考しがちな中国において、共産党は『モンゴル人たちは対日協力者』だと断罪し、民族自決のための歴史も『祖国を分裂させようとした行動』だ、と建国後17年の歳月が経ってから批判しはじめた。モンゴル人たちが近現代において構築してきた歴史はすべて罪として再清算された。こうして、1967年から1970年にかけての3年間に、大規模なジェノサイド(民族の集団虐殺)が内モンゴルの草原で発動された」。
「内モンゴル自治区は『モンゴル修正主義者の国』や『ソ連修正主義者』と国境を接する『反修正主義の前線』である。いざ修正主義者の軍隊が攻めてきたときのモンゴル人たちの動向も定かではないので、やはり事前にその精鋭を集団粛清するのが無難な防衛策だった。何しろ、精鋭たちは以前に日本に協力した過去をもっているのである」。
「共産党政府と漢人たちがすすめた残忍非道な殺戮は規模が大きく、期間も長かった。内モンゴルの草原は名実ともに『殺戮の原野』に化していた。女性たちはレイプされ、国境地帯に住んでいた者は強制移住を命じられた。人々は母国語のモンゴル語で話すことも禁じられていた。・・・何万人ものモンゴル人が殺され、大勢の女性たちが強姦された文化大革命であるが、裁かれた漢人は一人もいなかった。被害者のモンゴル人たちに味方する正義は中国にはなかった。・・・大量虐殺は『モンゴル人同士の内紛』、すなわち『日本的な近代教育を受けた東部のモンゴル人たち』と『延安派モンゴル人たち』の『対立』が原因だった、と中国共産党は主張している」。
<白玉蘭という美しいモンゴル人女性がいました。・・・夫と親戚の者たちが見に行くと、陰部に棒が挿しこまれ、屎尿も出ていました。下半身に精子が残っていました。漢人たちに輪姦されたあとに、殺されたのです>。
<私は奴隷のような一生を送ってきました。今のモンゴル族は中国の奴隷にすぎません>。
「漢人たちは(ソド)夫人の体内にいた4カ月になる胎児を細い鉄線でえぐり出した。『どうせ、内モンゴル人民革命党員が生まれてくるので、早いうちに始末しよう』といいながら、平気で胎児を殺した」。
<人間の遺体をまるでもののようにずるずると引きずって出ろ、と命令されたものです。遺体のなかからは血がぽたぽたと出ていました。あのとき、中国にいる私たちモンゴル人の命は鼠のものよりも軽いものだと実感しました>。
「トゥク人民公社のトゥグルダイ生産大隊の漢人陳文奎と馬蘭芳夫妻は、50数種類もの暴力の方法を考え出して、毎日のようにモンゴル人たちを虐待した。・・・ドンロプは12種類もの方法でリンチされて、血尿となったが、それでもロバとの性行為を強制された。陳夫妻はドンロプの首の上に乗って、ロバの真似をするよう命じた。牧畜民のチョルモン、バルダンらにブタやロバと性行為するよう強制し、『お前らは畜生だ』と罵った。・・・女性のチョルモンは全裸にされて、連続5昼夜にわたって蹂躙されつづけた。『(モンゴル人は)死ねば死ぬほどいい。死んだら、食糧節約になる。内モンゴル人民革命党員はどんどん死んでいけば、私たちは安心して暮らせる』と公言していた」。
<漢人たちと人民解放軍の兵士らはチョルモンを丸裸にして馬車の上に立たせました。彼女は生理中だったにもかかわらず、下半身に布切れ一つ当てる権利すら奪われていました。群衆組織のボス喬祖光と陜西省から来た漢人の楊来喜たちが先頭に立って凌辱していました。私たちは周りに立たされていましたが、何もしてあげられませんでした>。
<(トゥメンバヤルの)娘は有名な美人でした。文化大革命中の1968年冬から翌年の春にかけて、彼女はさんざんひどい目に遭わされました。燃えている棍棒を陰部に入れられました。肛門と陰部が焼かれて完全に破壊されてしまったそうです>。
「虐殺の嵐のなかで、モンゴル人たちはつぎのような野蛮な行為を受けていた。頭を下げさせる、拷問、梁に吊るしあげて拷問する、舌に針を刺す、裸足で火の上で踊らせる、ペンチで歯を抜く」。
「モンゴル人たちを拷問にかけているあいだ、多くの女性たちがレイプされた。・・・漢人の知識青年たちがモンゴル人女性を『人民大衆による独裁』下に置き、目隠しをしてからくりかえし強姦した。その結果、何人もの女性が妊娠させられた。・・・漢人たちは彼らを裸にして、息子とその母親、義父と嫁が性行為をするよう強制した。侮辱に耐えられずに、義父は井戸に身投げして自殺し、嫁は首吊り自殺し、息子は刀で自害した。そして、残された母親も狂った」。
「アナルートの夫人ウヌゲは丸裸にされてさまざまな侮辱を受けた。漢人たちはタイヤに鉄釘を一杯つけた『狼牙棒』という道具を使って彼女を殴った」。