孝明天皇は岩倉具視に毒殺されたという説得力ある仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3083)】
爽やかな秋風に吹かれながら、かなりの距離を歩き、千葉・柏の松ヶ崎城跡(写真1~11)を訪れました。静寂に包まれた城跡で往時を偲ぶことができました。ダイサギ(写真12)をカメラに収めました。小さな網を持って川に入っている女の子に、何を捕っているの?と尋ねたら、テナガエビ(写真13)とヨシノボリ属の一種(写真14)を見せてくれました。可愛い容姿と声から女の子と思い込んでいたが、実は男の子と分かり、びっくり! 因みに、本日の歩数は16,273でした。
閑話休題、『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』(中村彰彦著、中央公論新社)が主張する孝明天皇(明治天皇の父)は岩倉具視に毒殺されたという仮説は説得力があります。
「慶応2(1866)年12月25日、数え36歳で不意に崩御した孝明天皇の死因については、痘瘡(天然痘)による病死説と毒殺説とが死の直後からおこなわれている」。
「毒殺説は、天皇が痘瘡を病んだことを否定するものではない。病んだ天皇が回復しつつあることに気づいた何者かが薬湯を運ぶ役目の女官に命じ、その薬湯に無味無臭の砒素を仕込んで弑逆させた、と考えるのだ」。
「天皇は通常型痘瘡を病んだものの、回復に向かった。そのため回復されては困ると考えた者に、一服盛られて崩御された可能性がきわめて高い」。
毒殺の黒幕は岩倉具視と、その妹で元高級女官の堀河紀子で、毒を入れた実行犯は天皇の側近くに仕える大典侍の中山績子だというのが、著者の仮説です。
著者は、岩倉が孝明天皇毒殺を目論んだ心の内をこう推察しています。「討幕と王政復古がふたつながら成功したとしても、異人大嫌いの孝明天皇が親政をおこなうようになったりしたら、欧米列強と戦争になるのは目に見えている。だからこの際、天皇には退場してもらい、まだ新政府に口出しできるほど世慣れてはいない睦仁親王(明治天皇)に代わっていただこう」。
「孝明天皇の崩御直後から、岩倉と組んだ討幕派・王政復古派公卿の復権がめざましくなり、ついに岩倉は新政府の実質上のトップ輔相に成り上がった。長州藩奇兵隊の出身、西南戦争後、陸軍中将となった三浦梧楼が、『忌憚なく申せば、先帝(孝明天皇)の御在世が続いたならば、御一新は出来なかった』と率直に回想したのは、三浦が明治天皇の勅許もなく倒幕の密勅や錦旗を偽造した岩倉グループに胡散臭さを感じていたためであろう」。
「醜貌と矮躯からかつて『岩吉』と呼ばれていたわずか150石取りの貧乏公卿岩倉」は、大胆不敵な陰謀を巡らせ、思い切った勝負に出て、大きな成果を手にしたのです。