共に反平家の兵を挙げながら。源頼朝が成功を勝ち取り、木曾義仲は失敗に終わったのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3132)】
【読書クラブ 本好きですか? 2023年11月14日号】
情熱的読書人間のないしょ話(3132)
さまざまな色合いのバラが咲いています。
閑話休題、『源頼朝と木曾義仲』(長村祥知著、吉川弘文館)は、共に反平家の兵を挙げながら、成功を勝ち取った源頼朝と失敗に終わった木曾義仲の戦略を比較しています。
「頼朝が1180年代の内乱を勝ちぬいた要因はさまざまにあろうが、木曾義仲・源行家・源義経が治承3年11月の政変の時点で官職を帯していなかったことや、内乱以前に後白河と親密な関係ではなかったことに対して、頼朝の『前右兵衛権佐』という前官や後白河との関係が潜在的な力として機能したことが指摘できよう」。
「我々が『武士』とひと言で呼んでいる社会集団のうち、例えば清和源氏や桓武平氏の有力武士は中級貴族といった方が妥当であり、京で政治的地位を確保していた。意外に思われるかもしれないが、平安時代の武士にとっては、京での官位昇進が所領の確保・拡大に匹敵する重要課題であった」。
「東国武士にとって京が重要な活動の場であり、皇族・貴族と接点を持つことや、京の王朝身分秩序内での官位上昇が重要だったとすると、平清盛や木曾義仲のように、京で武士の頂点に位置するというあり方が自然だったのではないか。彼らと同時代を生きた源頼朝が鎌倉に幕府を樹立したことこそ、むしろ特異なことだったとも考えられる」。著者は、東国にとどまった頼朝と、京を目指した義仲の戦略の違いが明暗を分けたと主張しているのです。
頼朝が鎌倉に居住し続けることを選んだのは、「平清盛や木曾義仲の興亡を東国から眺めて、当該期の京・畿内近国の権力構造のなかで在京する武家政権が存続できないことを理解したからであろう」。