ヴォルテールの聖書批判とはどういうものか、彼は神をどう考えていたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3142)】
高木の間を飛び交わすツグミ(写真1~4)の群れに出くわしました。コゲラ(写真5)、ヤマガラ(写真6)、シジュウカラ(写真7)、オナガガモの雄と雌(写真8、奥が雄)、オオバン(写真9)をカメラに収めました。ダイヤモンドリリー(ネリネ・ボウデニイ。写真10)が咲いています。我が家にクサギカメムシ(写真11)がやって来ました。
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閑話休題、ヴォルテールの聖書批判とはどういうものか、彼は神をどう考えていたのかを知りたくて、『ヴォルテールの世界』(髙橋安光著、未来社)を手にしました。
「彼(画家のサルヴァドール・ダリ)がヴォルテールに神を懼れぬ反骨精神を認めていたことだけは確かである」。
「『ついに解明された聖書』は韜晦の書である。・・・『ついに解明された聖書』には聖書の註釈や批判にたずさわる人びとが解釈者、註釈者、批評家、博学者、無信仰者、世俗人、検討家、皮肉屋、物理学者、自然学者、等と名づけられて登場するが、解釈者、註釈者、批評家しか登場しない『所謂検討』に較べてヴォルテールの芸の細かさが感じられる。・・・『ついに解明された聖書』は聖書批判であると同時にローマン・カトリックへの挑戦でもあった。・・・『ついに解明された聖書』の最後の言葉は以上の疑問に充分答えているはずである。<支配階級となったこの特殊団体の創始者、貧しく生まれ貧しく死んだこのユダヤ人創始者がつねにこの団体に言わないでほしいものである、わが娘よ、お前は父親になんて似つかないのだろう、と>」。
「彼(ヴォルテール)は有神論の得失を百も承知の上で近づいていったのである」。
「無神論と理神論は道徳上の弱点を有し、有神論も理想的ではないが、現実にはそれ以外にない、というのがヴォルテールの宗教的立場であろう。したがってそれは彼独特の有神論でなければならないのだ。・・・<理性は早晩すべての人間に語りかける。理性が示すところによれば、世界はそれ自体で整序されなかったし、社会は美徳なしに存続することはできない。以上から、神は存在し、美徳は必要である、という結論が出てくるのだ。人間性の弱さがそれに耐えうるかぎり、一般の幸福はこの二つの原理に由来するのである>。神と徳を別個の原理とみなすことは大変な異端であるが、この二元論的有神論こそヴォルテールの宗教観の基本である」。
本書の著者には申し訳ないが、私はこう考えます。ヴォルテールは、神の存在は合理的に認めるが、聖書や奇跡などの啓示は信じないという理神論の立場に立っているのではないかと。すなわち、彼は、神の存在は必要だが、神の介入は不要だと主張しているのです。
本書のおかげで、ヴォルテールが12歳年下の数学者・物理学者シャトレ侯爵夫人(ガブリエル・エミリー・ル・トンヌリエ・ドゥ・ブルトウィユ)の愛人として16年間を過ごしたという興味深い私生活を知ることができました。