平安時代の貴族の日記を読み解くと面白いぞ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3160)】
思いがけず、バン(写真1~5、7~13)が2羽出現したので、ここぞとばかりにバンバン写真を撮りました。バンのダイサギ(写真6、7)との接近、アオサギ(写真8)との接近、オオバン(写真14)をカメラに収めました。
閑話休題、『平安貴族とは何か――三つの日記で読む実像』(倉本一宏著、NHK出版新書)からは、平安時代の貴族の日記――藤原道長の『御堂関白記』、藤原行成の『権記』、藤原実資の『小右記』――を読み解くと面白いぞという、著者の熱い思いが伝わってきます。
●『御堂関白記』
「『御堂関白記』は古記録のなかではかなり特異な存在です。まず最大の特色として挙げられるのが、ほとんど人の目に触れないまま残ったという点です。・・・もう一つの特色は、自筆の日次記(日々の出来事を記録した日記)が残っている点です。・・・道長はメモを取ったりはせずに、記憶だけを頼りにこれを書いていたようです。・・・表と裏を内容によって書き分けているのも『御堂関白記』の特色です。・・・自筆本が現存する『御堂関白記』だからこそ、そこに様々な発見が潜んでいるのです」。
「道長は最高権力者なので、本来なら勝手に帰ってしまった公卿たちを怒っていいはずですが、彼は皆を怒るのではなく、『自分が儀式を主宰する人間としてふさわしくないのであろうか』と日記に書き留めています。5年経ったとはいえ、まだ道長は35歳。政権トップという立場に自信を持てずにいたようです」。
「(一条)天皇が彰子立后を承諾したと聞いた道長は、翌年の正月10日にさっそく立后の雑事定を行っています。立后の儀式の日取りを、陰陽師(おんみょうじ)を呼んで占わせるわけです。陰陽師は基本的に国家の官僚であり、朝廷に仕える身なので、道長が呼べばすぐにやって来ます。陰陽師は依頼した人がどう思っているか、何を求めているかに則って占いを行ない、答えを出します。聞いたほうは自分の願っていたとおりだ、やっぱりこいつは偉い、と安心します。それが天才的にうまいのが安倍晴明でした。道長は10日に晴明を呼んでいろいろなことを占わせ、その結果をもとに立后の儀式を行なうことになりました」。
「こうした宮廷政治史の裏面が明らかになったのは、自筆本が今日まで残り、誰でもそれを見ることができる時代になったからです。こういう発見は、写本だけしか残っていない他の日記ではなかなか起こり得ません。本人が書いた、消した、直したものがそのまま残っていた『御堂関白記』だからこそ、真実が見えてくるのです」。
●『権記』
「誠実かつ正直で、皆から信頼されていた行成は、王権内部の秘事に関わったり、天皇、東宮、国母、政権担当者など、いろいろな人から秘密を打ち明けられる機会も多かったようです。こうした内容の話は、本当は誰にも言ってはならないはずなのに、行成はそれを堂々と『権記』に書いています。なぜそんなことをしたかといえば、自分が聞いた秘密や、秘密裡で行動したことを書き記しておくことが、自分の子孫にとってプラスになると考えたからでしょう」。
「『権記』の最大の特徴といえるのが、天皇から下級官人まで、多種多様な階層の人たちの様子が描かれている点です。・・・もう一つ『権記』で特徴的なのは、王権の秘事が書かれている点です。・・・他には、道長の行動や様子が赤裸々に描かれているという点も『権記』の特徴といっていいかもしれません。道長は『御堂関白記』に自分のことをあまり詳しく書いていませんが、『権記』を見ると道長のありのままの姿がよくわかります。病気になって弱気になっている姿、怒っている姿、天皇に対して何か含むところがあるときの姿など、リアルな道長の姿を、行成は克明に描写しています。つまり『権記』は、道長を知るための史料として読むこともできるのです」。
●『小右記』
「『小右記』がこれほど長大な日記になったのは、すべてを実資が書いたのではなく、様々な人の共同作業によって日記が作られたからだと言えます」。
「藤原実資が日記を書いた最たる目的は、儀式や政務を後世に正しく伝え、そのスタンダードを作ることでした。それは一方で儀式に対して先例を外すこと、これを『違例』と言いますが、違例に対して非常に厳しかったことを意味します」。
「彼(実資)は本当に立派で素晴らしい人でした。こういう人物は日本の歴史のなかでもなかなかいないと思います。どんなときにも権力に媚びることなく、原則を大事にして自分の信念を貫いています。一見、厳しそうに見えますが、周囲から信頼され尊敬もされています。私は歴史学者なので本来は歴史上の人物の好き嫌いを言ってはならないのですが、尊敬する人物を一人挙げよと言われたら、やはり実資の名前を挙げるでしょう」。
●『紫式部日記』
「敦成親王の誕生を記録した日記のなかには,仮名で記された日記もあります。それが『紫式部日記』です。誤解されている人が多いようですが、『紫式部日記』は単なる日記ではなく、道長が書かせた御産日記です。なぜ道長は紫式部にそれを書かせたのでしょうか。ひとことで言えば、女性ならではの視点と表現で彰子の出産を記録してほしかったからです」。