生きることと学問することとが一つになりうると教えてくれた先生・見田宗介・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3204)】
クロガネモチ(写真1、2)が実を付けています。我が家の庭の餌台「空中楽園」にやって来るメジロ(写真3)たちは、果物好きの私同様、ミカンだけでなくリンゴ、キウイフルーツもよく食べます。自分を先に読んでほしいと、本たちがアピール合戦を繰り広げています(写真4)。
閑話休題、大澤真幸が書いたものに大いに刺激を受けてきた私にとって、彼に影響を与えた先生とは誰なのか、どのような影響を受けたのかということは大きな関心事です。この答えを『私の先生――出会いから問いが生まれる』(大澤真幸著、青土社)が明快に示してくれました。
「私が見田(宗介)先生に出会ったのも、まさに10代の終わり頃、厳密に言えば、大学入学直後の18歳の春だった。私は、大学に入る直前――入試が終わったすぐ後だったが――、先生の当時の新刊を読んでいた。これから学ぶことになる大学の教授が書いたものだったからである。その本は、真木悠介の名で書かれた『現代社会の存立構造』だ。これは、マルクスの『資本論』を、イデオロギー的な含みを抜き取り純粋に社会理論として読んだときに、何を導き出すことができるかを論じた本である。私は、この本の圧倒的な明晰さと想像力の拡がりに驚嘆し、大学に入ったら真木悠介=見田宗介先生の講義を絶対にとろうと決めていた」。
「私の心が先生に出会ったと感じたのは、この『比較社会学演習』の、その年の実質的には最初の講義においてであった。・・・何に私はそんなに感動したのか。生きることと学問することとが一つになりうることの確かな実感。感動のポイントを一言でまとめれば、そうなるだろう。授業の後、精神が、授業時よりも一段高い自由を得て、歓びのあまり小躍りしている。そんな気分だった。毎回の講義の後は、ノートを何度も読み返し、一緒に受講していた友人と繰り返し議論した。そして、何より、翌週のさらなる展開が楽しみで仕方がなかった」。
「はっきりとこう言わねばならない。見田宗介先=真木悠介先生がいなかったら、社会学者としての私はなかった、と」。
「この本(『気流の鳴る音』)は、いくつかの文章からなる論集の形態をとっているが、その中心にあるのは表題作でもある『気流の鳴る音』という論考で、これがこの著書の8割以上の長さである。『気流』は、しかし、ふしぎな文章で、何とも分類しがたい。真木先生の学問の全体構想との関係では、<コミューン論を問題意識とし、文化人類学・民俗学を素材とする、比較社会学><近代のあとの時代を構想し、切り開くための比較社会学>というその後の仕事のモチーフとコンセプトを示す序説のような意義をもった文章だが、研究の計画のようなことが書かれているわけではない」。
「メキシコ北部のインディアン・ヤキ族のある老人の生きる世界を、人類学者カスタネダが紹介した本がある。カスタネダは、ドン・ファンという名のその老人に10年間ほど弟子入りして、生き方を学ぶ。その教えの中核にあるのは『心のある道を歩む』という態度と思想である。『気流』は、カスタネダの著書を素材にして、ドン・ファンの教えを真木先生がきわめて明晰に読み解いたものである。・・・この(インド、メキシコ、ラテンアメリカ等の)旅を通じて得たものを表現するための触媒のようなものとしてカスタネダの本を利用しているので、『気流』に書かれていることは、ほんとうは全面的に真木悠介の思想である」。
「真木先生が、『気流』の、『結』に先立つ部分、つまり本文の実質的な最後に引用しているのは、ドン・ファンの『人間は学ぶように運命づけられておるのさ』という言葉である。つまり、人間は生きることにおいて、学ぶ(探究する)、と」。
「『気流』によれば、ドン・ファンの教えが導く最終的な境地は『心のある道』である。『心のある道』とは次のような趣旨のことである。旅には目的地がある。同様に、人生にも目的がある。だが、旅の意味は、目的地に到達できたかどうかだけにあるのだろうか。たとえば、松尾芭蕉は、松島を目指して旅立ち、『奥の細道』の数多の名句を残し、ついに松島に着くが、松島では一句も残していない。松島はただ芭蕉の旅に方向を与えただけで、旅の意味は、目的地である松島に到達できたかどうかにかかっているのではなく、奥の細道という過程そのものに内在していたのだ。これが『心のある道』ということである。これを『人生』で見たときにはどうなるのか。もし人生の意味が、目的を達成できたかどうかにあるのだとすれば、途中で挫折したり、もくろみ通りにいかなかったりした人生は、虚しく無意味だということになる。それだけではない。人生におけるどんな目的も、さらにのちの目的にとっての手段である。しかし、人生の最後には死が待っているので、どんな人生も最終的な目的には到達しない。意味が目的へと疎外されているとき、どんな人生も虚しい。しかし、人生を『心のある道』として歩むものにとっては違う。芭蕉が、奥の細道を歩みながら、そのときどきの感動を楽しみ、句をつくったように、人生の歩みの過程そのものを充実して歩むことができる」。
大澤真幸にここまで言われたら、『気流の鳴る音』を読まずに済ますわけにはいきませんね。