現代の私たちも親鸞に親しみが感じられるようになる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3338)】
シオカラトンボの雄(写真1)、ヤナギハナガサで吸蜜するアシブトハナアブ(写真2、3)、クロウリハムシ(写真4)をカメラに収めました。カシワバアジサイ(写真5、6)、ガクアジサイ(写真7、8)、サツキ(写真9)、キンシバイ(写真10、11)、ビヨウヤナギ(写真12、13)が咲いています。ニワトコ(写真14)、マグワ(写真15)、ヤマグワ(写真16)、ヘビイチゴ(写真17)が実を付けています。
閑話休題、『一億三千万人のための<歎異抄>』(高橋源一郎著、朝日新書)の高橋源一郎の『歎異抄』の現代語訳は工夫が凝らされているため、現代の私たちも親鸞に親しみが感じられるようになります。
<わたしのような人間にふさわしい場所は、ゴクラクじゃなくジゴクなんです。そう、ジゴクこそがわたしにふさわしい。わたしは、そういう人間なんです。アミダの「すべて生きとし生けるものを救いたい」というお誓いが真実なら、そのことを経典でも説かれている釈迦(シャカ)のことばがウソのはずがありません>。
<「あんなひどいことをした悪人でさえ、救われてジョウドに行けるのなら、善人はもう無条件でゴクラクジョウド行き確定だよな」って思う。それがふつうの考え方だ。確かに、ぼんやり聞いていると「ふつうの考え」の、その論理は正しそうに思える。ユイエン、でもそうじゃないんだ。それは、おれたちが信じている「本願他力(ホンガンタリキ)」、つまり「すべてをアミダにおまかせする」という考えから遠く離れた考えなんだ。善人というものは、もっと正確にいうなら、自分を善人だと思いこんでいる人間は、なにかにすがらなきゃ生きてはいけないというような、ぎりぎりに追い詰められた気持ちを持ってないんだ。なにか善いことをしてその見返りでゴクラクオウジョウできるんじゃないかって思ってるんだ。こころの底ではね。それじゃダメなんだ。そういう計算ずくの人間たちを救うことは、アミダにだってできないのさ。・・・ユイエン、悪人ってなんだ? おまえにはわかるか? 生きてゆくためには、どうしても悪を選んでしまう人間のことだ。どうして人は、どんな悪とも無縁で生きてゆけるだろう。そもそもほかの生きものの命を奪わなければ、生きてはいけないというのに。だから、ユイエン。おれたち人間はみんな生まれついての悪人なんだ。そんな、悪人として生きるしかないおれたちを、アミダは救ってくださろうというんだよ。だとするなら、自分には、救われるための資格なんかなにもないと最初からすべてをあきらめ、アミダにおすがりするしかないと考えている悪人こそ、いちばんジョウドに近い人間ではないだろうか。自分の中にある悪に気づかない善人でさえ、ゴクラクジョウドにオウジョウできるとしたら、自分の悪を見つめて生きるしかない悪人なら当然オウジョウできる、というのは、そういう意味なんだよ>。
<ネンブツをとなえるということは、タリキそのもの、ただもうひたすらアミダのお力にすがるだけのことなのだから、「修行」でもないし、「善行」とも遠くかけはなれたものなんだよ>。
<どの経典にも、すべてをおまかせするのだ、そこに真実があるのだと書かれている。そして、アミダのお誓いを信じてネンブツをとなえれば、ジョウドにオウジョウできるとも書かれている。それだけわかれば、他になにが必要だというのだ>。
<そうだ。信じなければならないのだ。ぼくたちは無力だ。無力だからこそ、アミダはその大きな力によって守ってくださるのだ。それが「タリキ」のほんとうの意味なのだ>。
<でも、ぼくたち「タリキ」のジョウド宗はちがう。この世ではなく、ジョウドにたどり着いたときサトリを得ることができるのだ。そのためには、この世ではただネンブツをとなえようと思うだけでいい。なにもかもアミダにおまかせしよう。その気持ちがあればいい。それだけでいいのだ>。
シンランさん、本書のおかげで、あなたの言いたいことはよく分かりました。あなたの求道的な真剣な生き方には心から敬服していますよ。しかし、私は死後のジゴクもゴクラクジョウドも存在しないと考えています。それに、シャカはアミダという存在については一言も語っていませんよ。釈迦の死後、後世の一部の弟子たちがアミダというものを勝手に創出したのに過ぎないのですから、当然といえば当然ですが。