榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

もう一つはっきりしなかった北条義時の実像が明らかに・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3343)】

【読書の森 2024年6月6日号】 情熱的読書人間のないしょ話(3343)

東京・文京の小石川後楽園で、アオサギ(写真1~3)、マガモの雄の若鳥(写真4)、クサガメ(写真5)をカメラに収めました。セイヨウスイレン(写真6~9)が咲いています。我が家の庭師(女房)から、コクチナシ(写真14)、ナツツバキ(写真15、16)が咲き始めたわよ、との報告あり。

閑話休題、読書会仲間のナッツ マカデミアさんから薦められた『北条義時――鎌倉殿を補佐した二代目執権』(岩田慎平著、中公新書)を手にしました。

本書のおかげで、いろいろと学ぶことができました。

●43歳(数え年)の北条義時は、討伐軍の大将軍として畠山重忠を討ちました。鎌倉に戻った義時は、重忠に対する謀叛の疑いは虚偽のものと断じ、讒訴によってその一族を滅ぼすに至った父・北条時政の判断を糾弾し、時政は失脚します。この事件は北条氏が鎌倉幕府の中でその地位を固める一階梯となったが、その北条氏の内部では時政から義時への世代交代がなされたのです。以後、重要案件は、鎌倉殿である源実朝や北条政子(実朝の母、義時の姉)の御前で、義時、大江広元、三善康信、安逹景盛らが審議・決裁を行うという形式で幕府の運営が行われていきました。

●承久3(1221)年5月、後鳥羽院は義時(59歳)追討の命令を発します。承久の乱の勃発です。『吾妻鏡』も認めるように、後鳥羽院の敵意は義時に向けられたものでした。源頼朝の時代に与えられた恩賞を大した落ち度もなく没収されるべきではないというのが義時の主張だが、これを義時一人の問題に帰結させず、全国各地に地頭職を持つ幕府御家人全ての問題として捉え直し、鎌倉にいる御家人たちに団結を促したのは政子でした。承久の乱は、実質的な鎌倉殿である政子を義時が支えて幕府方を勝利に導いたのです。

●承久の乱に勝利した幕府は、後鳥羽院を隠岐島、順徳院を佐渡島に配流しました。承久の乱の結果、幕府は治天(院政を行う上皇)であった後鳥羽院から、皇位継承者選定権(天皇と皇太子を決める人事権)、院領荘園、軍事動員権を奪い、それらを新たな院政の担い手である後高倉院に付与しました。このことにより、幕府はこれらの権限の実質的な保有者となったのです。