「倭の五王」の「倭王武」は雄略天皇ではない、磐井の乱制圧により継体天皇が西日本も支配下に置いた――という説得力十分の仮設・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3433)】
【読書の森 2024年9月6日号】
情熱的読書人間のないしょ話(3433)
アカボシゴマダラ(写真1)をカメラに収めました。ヤマハギ(写真2)、ベニバナアベリア(写真3、4)、ヘメロカリス(写真5)、タマスダレ(写真6)が咲いています。マンネンタケ(別名:レイシ。写真7、8)が生えています。洗濯物を取り込んでいた撮影助手(女房)が、洗濯物に這うシロテンハナムグリ(写真9、10)を見せに2階から駆け下りてきました。
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閑話休題、『いにしえの散歩道』(大津荒丸著、幻冬舎メディアコンサルティング)では、民間の一歴史愛好家が歴史学者たちに真っ向から異議申し立てを行っているが、これが滅法説得力があるので、一歴史愛好家の私は溜飲が下がりました。
著者の主な主張を挙げてみましょう。当然のことながら、それぞれに説得力ある根拠が示されています。
●元々大和地方には記紀の「神代」に記された説話は無かった。「高天原」は北九州、抗争相手の「葦原中国」は出雲を中心とした山陰地方である。大和王朝は記紀編纂に当たり、九州の統治者一族に伝承されていた神話を取り入れた。
●『日本書紀』編纂者さえも卑弥呼が大和天皇家とは無縁だとしていることから、卑弥呼が北九州を根拠地としたことは明らかである。
●「倭の五王」の「倭王武」は大和天皇家の雄略天皇ではなく、大陸文明の窓口となる北九州の宋に朝貢する実力がある統治者である。
●「倭の五王=大和天皇家」説に依存している邪馬台国近畿説は、「倭の五王=北九州」説に基づく邪馬台国九州説に膝を屈さざるを得ない。
●「倭王武」の時代から約50年後、磐井の乱が起きる。磐井の乱は単なる地方の反乱ではなく、継体天皇の大和王朝が九州王朝に勝利した重要な戦いである。この勝利により、西日本が大和の支配領域となったからである。