紫式部は藤原道長の「召人」だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3457)】
トロロアオイ(別名:ハナオクラ・写真1~4)、フジバカマ(写真5)、オミナエシ(写真6、7)、ミソハギ(写真8、9)、シロバナマンジュシャゲ(写真10、11)が咲いています。アメリカセンダングサ(写真12)が花と実を付けています。タコノアシ(写真13)が実を付けています。キャベツ(写真14、15)が育っています。
閑話休題、『史実でたどる紫式部――「源氏物語」は、こうして生まれた。』(古代学協会監修、朧谷寿・山本淳子・山田邦和・日山正紀著、中田昭写真、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社 光村推古書院書籍編集部)で、個人的に、とりわけ興味深いのは、●王朝女流作家の血縁関係、●紫式部と藤原宣孝、●紫式部と藤原道長――の3つです。
●王朝女流作家の血縁関係
掲載されている系図を見ると、『枕草子』の清少納言、『蜻蛉日記』の藤原倫寧の女(藤原道綱の母)、『更級日記』の菅原孝標の女、『源氏物語』の紫式部が、縁戚関係にあることが分かります。
●紫式部と藤原宣孝
父・藤原為時について越前に赴いていた紫式部に藤原宣孝から恋文が送られてきたことから、手紙のやり取りが始まり、998年、紫式部は結婚のため京に戻ります。結婚し賢子を儲けるが、1001年、宣孝が死去します。「死因は不明だが、折から疫病の流行った頃だった。妻とはいえ正妻でなく、彼と同居していなかった紫式部にとっては、最期を看取ることもできないあっけない別れだったに違いない」。
●紫式部と藤原道長
藤原道長と紫式部が初めて言葉というか、和歌を交わしたのは1008年7月、中宮彰子が出産のために里下がりしたのに随伴して土御門殿に来て間もない頃と思われるとされています。
道長と紫式部の間に男女の関係があったと考える研究者が多いと記されています。宣孝との結婚生活はそれなりに幸福なもので、賢子を授かったが、ほどなく宣孝と死別。「娘を育てながら悲しく孤独な里暮らしを余儀なくされた。そうした暮らしを続けている時、宮仕えの話がきて出仕することになり、上流社会および皇族の日常を知る契機となった。その彼女に、すべてを手に入れた当代一の道長から声がかかったのである。断る理由などあろうはずがない。道長に身を委ねることによって一家は安泰となる。つまり父や弟の官人(受領)としての道は保証されたようなものである。道長が夜中に不意に訪ねてきたこの時には、身心の不都合があったものか、受け入れる準備ができていなかったので寝たふりをしてやり過ごしたことは十分に考えられる。しかし、そうでない時には道長の申し出でを喜んで受け入れたに違いない」。
当時、女房で主家の男性と男女関係にある者を「召人(めしうど)」と呼んだが、彰子の女房で紫式部の良き友でもあった大納言の君(源廉子)も道長の召人になっています。紫式部も道長の召人だったと考えられているのです。