宮崎駿の思想・夢想を「飛翔」と「地平線」というキーワードから読み解く・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3546)】
アオサギ(写真1)、オオバン(写真2)、キジバト(写真3)をカメラに収めました。ホオズキ(写真4)が実を付けています。パンジー(写真5)が咲いています。
閑話休題、はっきり言うと、『スタジオジブリの想像力――地平線とは何か』(三浦雅士著、講談社)は衒学的な著作です。
それは措いて、著者が主張したいのであろうことを私なりに乱暴に整理すると、こういうことになるでしょう。
●宮崎駿の思想、夢想すなわち想像力とは飛翔のことであり、飛翔とは想像力のことなのだ。それこそアニメーションの核心に潜むものなのだという思想の根幹にかかわるからである。
●飛翔する力(空を飛ぶ力)がジブリを創った。人間にとって空を飛ぶことは、上空から見ること、広い世界を眺めわたすこと、そして好きな所に着地してそこからじっくり眺め回すこと。
●宮崎の作品を眺め返せば、一目瞭然、主人公は必ず飛ぶ。何らかのかたちで、必ず飛ぶ。走っていても、それは限りなく飛翔に近い走りなのである。落下でさえも、それは限りなく飛翔に近い落下なのだ。そして、その飛翔は、疑いなく、自由のイメージと切り離し得ない。
●宮崎にあっては、飛ぶことは必ず自由であることの実践なのであって、そして、それはこれも必ず、視点を変えて世界を眺め返すことと表裏なのであって、絶対に切り離せない。その飛翔が失敗に終わるにしても、自分の自由を賭けた失敗なのである。だからこそ、見ている者は手に汗握るのであり、同じ自由を味わうことによって、生きているということを実感する。
●宮崎のアニメ作品で驚くべきことは、ほとんど全ての作品において地平線が極めて重大な役割を果たしている。宮崎は、異界の異界性を、とりわけ地平線、水平線を描くことによって、誠に鮮やかに示してみせたのだ。
●地平線は自己への問いによって生み出されたものである。というより、人間は自己への問いを目に見えるものにするために地平線を発明したようなものである。自分は何ものでいったい何をしようとしているのか、と。そして、最終的に、私はこの地平線に愛されているのか、肯定されているのか、ひょっとすると憎まれているのではないか、と。人間とは地平線を問い続けるものである。しかも、それは潜在的にではあっても、常に懐かしいものであり、懐くべき対象でもある、というのが宮崎の思想なのだ。
●あの世とこの世を結ぶもの、あるいは隔てるものとしての地平線をこれほどまでに徹底して描いた、そして探究した芸術家は宮崎だけである。
●飛ぶことと地平線とは、切っても切り離せない。