大乗仏教は、釈迦の教えとは大きく異なる救済の道を説く仏教だ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3719)】
さまざまな色合い・形態のクレマチスが咲き競っています。
閑話休題、『仏教は、いかにして多様化したか――部派仏教の成立』(佐々木関著、NHK出版)のおかげで、釈迦の教えに対する理解を深めることができました。
●釈迦は、我々が住んでいるこの世界には、苦しみを根本的に取り除いてくれるような外部の超越的存在はない、と考えた。私たちはこの世の中にただ放り出されて、たまたま生まれてきているのであって、何か外部の絶対者につくられたとか、創造神がいるとか、そういった外部の我々以上の存在がどこかにいるという思いはない。苦しみの原因の老と病と死を受け取る私たちが「老、病、死を苦しみだ」と感じ取るところに苦しみの生まれる源がある。だから、この苦しみを消すためには外界からの作用を自分自身がどう受け取るかという、その受け取り方を変えるしか方法がない。つまり、自分自身の物の見方、世界観、価値観、そういったものを丸ごと変えていくしか道がないというのが釈迦の考えたことなのだ。一言で言えば、「より善いもの、より多くのものを望むのをやめる、望みのあるものを手に入れたいという思いを捨てる」という生き方の勧めである。
●釈迦本来の教えは、「修行によって煩悩を除去したときに初めて我々は悟りの境地に到達することができる」というものである。
●釈迦は、この世を「一切皆苦」ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた。業の影響から逃れて、二度と生まれ変わらない状態を実現するための特別なトレーニングとして釈迦が説いたのが仏道修行、つまり悟りへの道なのである。大乗仏教が言うような、「在家者として普通に暮らす中にも悟りへの修行がある」という考えは成り立たない。在家者として普通に暮らすということは、善業を積んで楽な生まれ変わりを目指すという生き方に従うということだからである。それは悟りへの道とは無関係な世俗の生き方だから、いくら俗世で「善いおこない(善行)」を積み重ねても、悟りを開いて涅槃に入るという道にはつながらないのだ。このつながらない断絶をなんとかつなげようとしたのが大乗仏教である。
●大乗仏教は、釈迦の教えとは大きく異なる救済の道を説く仏教だと、著者は断言している。
●釈迦入滅後、極度に多様化したインドの仏教思想が中国へ流入し、それを中国人が再解釈し、ランク付けし、系統化したことによって、ますます多様化が進んだ。その上、中国では、もともとインドにはなかった禅宗という新たな仏教が生み出された。このように宗教的アイディアの坩堝のようになった仏教が、6世紀になって日本に入ってきたのである。
釈迦が現在の大乗仏教の蔓延ぶりを見たら、何と言うでしょうか。