白洲正子の真骨頂は、親しく接した人物たちの点描にあり・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3820)】
ハナトラノオ(別名:カクトラノオ)が咲いています。
閑話休題、天の邪鬼の私は、白洲正子というのは、骨董、能、仏像、寺社仏閣、華道、茶道などのいずれについても非常に勉強熱心なアマチュアだと考えています。夫の白洲次郎もそう見做していたのではないでしょうか。
正子の作品はいくつか読んできたが、今回、『白洲正子』(白洲正子著、小池真理子編、文春文庫・精選女性随筆集)を読んで、正子の真骨頂は、河上徹太郎、梅原龍三郎、小林秀雄、青山二郎など親しく接した人物たちの点描にあると感じました。
例えば、正宗白鳥の場合――
●(今しがた本は読まないといわれたばかりだのに)、この頃毎日藤村の作品を読み返しているが、どうも自分には一番面白い。人間はともかくの評判もあり、自分としても決して好きとはいえないが、あのしつっこさ、一度喰い下ったら離れないといったような執念深さには心をひかれる。「あんたは好きか」と聞かれるので、「つまりません」と答えると、「そうだろうナ、おそらくそれが正しいのだ。だから、わたしが面白いとゆうたからといって、あんたが読む必要はない。下らんことだ、お止しなさい」といわれました。・・・帰りに町の本屋により、藤村の本をしこたま買って戻りました。藤村は依然としてつまらなかったが、その中に正宗さんを読むことは興味がありました、まったく現実に対する執着がなく、淡々そのものに見える白鳥文学も、実は藤村以上にしつっこいある意味の生活力が生んだものではないでしょうか。
●(白鳥文学は)自分でも書いていられるように、懐疑派なんてハイカラなものではない、正宗さんの否定は積極的です。野性的でさえあります。それは荒く、冷たく、人の勇気をそぐ力を持っていますが、そういう思想に堪えるためには、またどれ程強い力と勇気を必要とすることか。先生のゼロに近い生活ぶりを見て、一番感じたのはそのことでしたが・・・。
●藤村は、先生にとって自分を映す鏡として、結局なくてはならぬ生涯の友だったのでしょう。
島崎藤村の作品は好きであれこれ読んできたが、正宗白鳥の作品は手にしたことがありません。そんな私だが、白鳥作品を無性に読みたくなってしまいました。『何処へ』から手を付けようと考えています。