ラフカディオ・ハーンから「世界で一番良きママさん」と感謝された妻・小泉セツ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3899)】


『凛々しき明治女性たち』(根岸理子著、論創社)では5人の女性が取り上げられているが、個人的に、とりわけ印象深いのは、小泉セツ(1868~1932年)です。小泉セツと夫、パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の実像が生き生きと再現されているからです。
●セツは、松江藩の武士で番頭役だった小泉弥右衛門湊・チエ夫妻の次女として生まれたが、生まれてすぐに遠縁の稲垣金十郎・トミ夫妻の養女となった。
●稲垣金十郎が生活のために事業を興したものの「士族の商法」で失敗し、一家は住み慣れた屋敷を追われることになった。セツは前田為二と結婚するが、負債の大きさに恐れをなした為二は、結婚後わずか1年も経たないうちに出奔してしまう。その後、セツの実家の小泉家も経営していた機織り会社が倒産し苦境に陥った。セツは名跡が絶たれる可能性のあった小泉家に復籍し、養父母、養祖父に加え、実母の生活まで支えなければならない立場に置かれた。島根県尋常中学校および師範学校の教師として松江に赴任してきたハーンと出会ったのは、その頃である。ハーン40歳、セツ22歳のことであった。
●アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれたハーンは4歳の時、両親が離婚、13歳の時、遊びの最中に左目を失明、17歳の時、育ててくれた大叔母が破産という不幸に見舞われ、厳しい世の中に放り出された。ギリシャからアメリカ、カリブを経て、日本へ。
●セツは、家族の生活を支えるため、ハーンの家の住み込み女中として働くことになる。ハーンもセツも、一目で互いを気に入ったというわけではなかったが、ハーンは、きびきびとよく働き、話がうまく、物怖じしないセツに徐々に惹かれていく。セツのほうも、雇い主として威張ることがなく、いつも立場の弱い者に優しいハーンの人柄に魅了されていった。
●ハーンは日本に帰化することを決意し、小泉家に入夫し、小泉八雲と名乗る。
●ハーン・セツ一家は松江から熊本に移り、さらに東京へ。ハーンが東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)の英文学の講師に採用されたからである。因みに、ハーンの後任は夏目漱石である。
●セツは、日本に古くから伝わる話をハーンに語ることで、彼の執筆活動に多大な貢献を果たした。セツが日本語で語った話を、ハーンが独自の解釈も含めて英語で記した。ハーンは著作により、セツと共に「日本」を海外へ伝えたのである。有名な『怪談』に含まれる作品のいつくかも、セツの口から語られたものだった。「ヘルンさん言葉」(ハーンとセツの間で交わされた独特の日本語)を使ったにせよ、聞き手の母国語でない言葉で、相手に「恐ろしさ」を感じさせることは、至難の業であると思われる。セツが表現力の豊かな賢い女性であったことは疑いないだろう。
●「夫に自分の力を認められ、子供の前で『世界で一番良きママさん』と感謝されたセツは、自分はまぎれもなく世界で一番幸福な女性だと感じたことだろう」。
●1904年、ハーンが54歳で病死。
●セツは、ハーン亡き後30年近くを生き、4人の子供(3男1女)を育て上げ、1932年、63歳で病死。
