武士にとっての「ゆだん大敵」とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3915)】
ツグミ(写真1)をカメラに収めました。イロハモミジ(写真2、3)が黄葉しています。ナンテン(写真4)が実を付けています。ソメイヨシノの樹脂が陽に輝いています(写真5)。散歩中のウィペット(写真8、9)に出会いました。帰宅した途端、撮影助手(女房)から、ツゲとモクレンの間を10羽ぐらいのメジロが飛び交っていたわよ、シジュウカラ(写真11。撮影助手が撮影)も来たわよ、今年は餌台を作らないの?と言われ、早速、餌台を作製し設置しました(写真12)。例年どおりであれば、彼らが新しい餌台は安全だと確認し終える3日後ぐらいから、どんどんやって来ることでしょう。因みに、本日の歩数は8,135でした。













閑話休題、『山本周五郎 戦場の武士(もののふ)たち』(山本周五郎著、あけび書房)に収められている『ゆだん大敵』は、いろいろと考えさせられる作品です。
長岡藩主・牧野忠辰に寵愛されている同い年の老田久之助は、柳生流の達人で、「御奉公はじめはあるが終りはないのだ。日々時々、身命を捧げて生きるということは、しかし口で云うほど容易なことではない、容易ならぬことを終生ゆるぎなく持続する根本はなにか、それは生き方だ、その日その日、時々刻々の生き方にある。垢の付かぬ着物が大事ではない、炭のつぎ方が大事ではない、拭き掃除も、所持品の整理も、その一つ一つは決して大事ではない、けれどもそれらを総合したところにその人間の『生き方』が顕われるのだ、とるに足らぬとみえる日常瑣末なことが、実はもっとも大切なのだ」と弟子に諭します。それを一言で表すと「ゆだん大敵」になるというのです。
山本周五郎は、俺が、俺がというタイプの人間を嫌い、日常の過ごし方、立ち居振る舞いを重視したのです。それこそ俺が、俺がというタイプの私には、耳が痛いなあ。
太平洋戦争中の「滅私奉公」しか許されなかった時代に書かれたこの作品には、周五郎の苦悩が滲んでいるのです。
