ニッコロ・マキァヴェッリの生涯はマキァヴェッリ的とは言えず、ほぼすべての活動で敗者側に回る悲しい歴史をたどった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3972)】
我が家の餌台でドラマが! 一昨日、撮影助手(女房)から「自分たちの餌場であるミカンの餌台から落花生の餌台に移ったメジロが、落花生の餌台にやって来た、自分より体の大きいシジュウカラやスズメたちを追っ払う場面を目撃した」という驚くべき報告があったが、今日、事実と検証することができました。私もこの目で確かに見たからです(メジロの餌は、今日はリンゴだが)。



















閑話休題、私が大いなる関心を抱いている歴史上の人物はニッコロ・マキァヴェッリとチェーザレ・ボルジアです。『歴史の語り手たち――過去が人類の物語になるまで(上)』(リチャード・コーエン著、山田文訳、東京堂出版)で取り上げられている人物はいずれも興味深いが、「偶然の歴史家――ニッコロ・マキァヴェッリ」に私が強く惹きつけられてしまったのは致し方ないですね。
●政治国家も市民も一つの道徳規範に縛られるというキリスト教の教義を否定することで、マキァヴェッリは歴史記録のあり方に論争を巻き起こした。
●マキァヴェッリにとって「真の歴史」とは人間の歴史であり、聖人や宗教的人物の伝記ではなく、政治と軍事の世界の記録だということである。マキァヴェッリは過去の説明を従来の倫理的枠組みから切り離し、歴史は事例やアナロジーの宝庫であって、その助けによって賢明な者たちが未来の舵を取れることを示した――それと同時に、歴史の視野と目的を大幅に広げた。
●『君主論』の著者は取るに足りない人物として出発したわけだ。
●1500年7月18日、マキァヴェッリは二人の使節団の一人としてフランスへ向かい、チェーザレが予測不能で危険な人物であることをルイ12世に進言した。
●マキァヴェッリはサヴォナローラに感心することはなかったが、チェーザレには感嘆させられた。チェーザレを善人と思う者はいなかったが、比較的弱いフィレンツェとは対照的に、チェーザレは戦いで主導権を握り、交渉の場では自己演出の才能を用いて相手を威圧できた。「実にすばらしく威厳のある態度の人物である」。すっかり夢中になったマキァヴェッリはウルビーノのからそう報告している。
●およそ1年間、チェーザレの指示のもとでマキァヴェッリはレオナルド・ダ・ヴィンチを軍事建築家および技術者として雇っている。
●マキァヴェッリはミケランジェロやボッティチェリをはじめとする大勢のルネサンスの主要人物とも知り合いだった。
●かつて完璧な指導者とみなしていた人物が、わめき散らす抜け殻同然の哀れな存在に落ちぶれていくのを目の当たりにし、マキァヴェッリはすぐにローマを発った。正式な報告書ではこう結論している。「この公爵(=チェーザレ)は少しずつ墓穴に滑り落ちつつある」。
●彼のような社会的背景の男には珍しいことでなかったが、マキァヴェッリは売春宿や男娼館を定期的に訪れ、50代になっても多くの相手と関係をもっていた。
●マキァヴェッリが理想的な君主のモデルにしたのは、あの邪悪なチェーザレ・ボルジアだった。
●ナポレオンは手元の『君主論』にたくさん書き込みをしていたといわれ、スターリンも翻訳版をベッド脇のテーブルに置いていたというが、それもうなずける。【因みに、私が企業の派閥抗争に明け暮れていた時の愛読書も『君子論』と『孫子』でした(笑)】
●結局、この短い本(=『君主論』)は史上最も無意味な就職応募書類になった。
●マキァヴェッリの生涯はマキァヴェッリ的とは言えず、ほぼすべての活動で敗者側に回る悲しい歴史をたどった。
●マキァヴェッリは顧問時代に渇望していた名声を喜劇作家として獲得した。
●60歳手前のマキァヴェッリは、悲しみに暮れ失望していた。長年のストレスと過労によって疲れ果て、体調を崩して激しい腹痛の発作に襲われ、1527年6月22日に愛する故郷で死んだ。
『君主論』という独創的な就職応募書類が功を奏さなかったとは!
『君主論』と、塩野七生の『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』と『わが友マキアヴェッリ』を再読したくなってしまいました。
