「モナ・リザ」のモデルはリザ・デル・ジョコンドではない?・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2043)】
あちこちで、さまざまな色合いのキクが咲き競っています。因みに、本日の歩数は11,159でした。
閑話休題、『レオナルド・ダ・ヴィンチ――よみがえる天才』(池上英洋著、ちくまプリマー新書)を読んで、とりわけ印象に残ったのは、●レオナルド・ダ・ヴィンチは「万能の天才」ではないという主張、●レオナルドとチェーザレ・ボルジアとニッコロ・マキャヴェッリの関係、●「モナ・リザ」のモデルは誰か――の3点です。
●レオナルドは万能の天才か――。
「レオナルド・ダ・ヴィンチを称して『万能の天才』とはよく言われることですが、その『万能の天才』というレッテルでは単純に片付けることのできない、波乱に富んだ一生をおくった、重層的で複雑で、不運と失敗だらけの『偉大なる普通の人』としてのレオナルドの姿が浮かび上がってくるはずです」。
「幼い頃に充分な教育を受けていないためにコンプレックスを抱えていたし、学問の探究を始めてからは実際にそのせいで苦労もしています。しかし彼の凄いところは執拗で、かつ謙虚なところです。わからないことがあれば自分よりも詳しい人のところへ素直に聞きにいき、同じ問題を何度も繰り返し考えるうちに、いつしか彼がその問題について当時最も詳しい人となっていきます」。
●レオナルドはチェーザレやマキャヴェッリとどれくらい親しかったのか――。
「(教皇)アレクサンデル六世には、生涯独身の聖職者なのに子供がいました。息子チェーザレ・ボルジアは若くして頭角をあらわし、庶子ながら父の懐刀として教皇軍を率いていました。軍事の天才であり、イタリア統一という高い理想を掲げながらも、手段を選ばない冷酷さを発揮するピカレスクロマンの主人公のような人物で、塩野七生の小説や惣領冬実の漫画によって日本でも高い人気をほこっています。教皇軍は電光石火の進軍を続け、1501年春にはイタリア北東部のファエンツァを落とし、ロマーニャ州全域をほぼ手中にします。翌1502年の3月にはウルビーノを占領。そのような彼のもとに、軍事技師がひとりあらたに加わります。それがレオナルドです」。塩野七生の小説『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』と、惣領冬実のコミックス『チェーザレ――破壊の創造者』は、私の愛読書です。
「勢いのあったチェーザレの幕舎には、各国から使節がやってきます。そのおかげでレオナルドはニッコロ・マキャヴェッリとも知り合います。マキャヴェッリはフィレンツェ共和国政府のナンバー2の要職にあり、イタリア諸国が採用している傭兵隊システムの脆弱性などを常々考えており、チェーザレと会って深く感銘をうけています。共和政の理念に逆らうかのように、強い君主像を支持するようになったマキャヴェッリは、後に著すことになる『君主論』の中で、理想の君主のモデルとしてチェーザレを採り上げています」。
「レオナルドが後にチェーザレ軍を離れてフィレンツェに戻ったとき、彼とマキャヴェッリはすぐさまフィレンツェ共和国軍の対ピサ戦にむけて協力しています。・・・レオナルドはさっそくピサ周辺の地図を示しながら、アルノ川の流れを変えてピサを孤立させる荒唐無稽な大計画を提案しています。軍事上の必要性から始まった地図製作は、いつしかレオナルドの数多い得意分野のひとつとなっていたのです」。
「その後、チェーザレとの関係は1年たらずで突然終わります。両者ともこの件に関しては沈黙しており、理由はわかりません。チェーザレの運命は、レオナルドが1503年2月頃に去ったあとの同年7月から暗転します。・・・1507年3月12日、チェーザレは戦場の露と消えます。まだ31歳の若さでした」。
●ルーヴルで展示されている「モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)」のモデルはリザ・デル・ジョコンドか――。
「(同時代人のアゴスティーノ・ヴェスプッチが所蔵本に書き込んだメモから)レオナルドが1503年に(当時、24歳前後の)リザ・デル・ジョコンドの肖像画を描いていることが裏付けられます」。
「(1517年10月10日に、同時代人のアントニオ・デ・ベアティスがレオナルドの工房で)『故ジュリアーノ・デ・メディチの注文による、等身大のフィレンツェ婦人』」を目にしたと証言しています。
「さまざまな仮説があるのですが、ここでは、以上のことから、現時点で最も妥当と考えられるシナリオをひとつ考えてみましょう。これは、デ・ベアティスが目にした作品を『ジュリアーノの注文によるフィレンツェ婦人の肖像』と証言できるだけの要件を満たしています。現ルーヴル作品は実はリザ夫人の肖像画ではなく、ジュリアーノの注文によるフィレンツェの婦人の肖像なのでしょう。この他に、リザ夫人を描いた別の作品があったのでしょう(こちらは消息不明か、レオナルド派とされる作品のどれかでしょう)」。
「上客であるパトロンのヌムール公ジュリアーノから、おそらく愛人であるフィレンツェ出身の女性の肖像を依頼され、ミラノ離脱後の第二フィレンツェ時代かローマ時代にこれに取り掛かります。しかしジュリアーノの死去か、その直前になされた結婚によって制作は中断。そのまま手もとに残った現作品は注文主を失ってしまいましたが、レオナルドはそのまま手もとに置いて、最後まで手をいれ続けます。これをデ・ベアティスが記録し、そのままフォンテーヌブロー宮殿を経て現在に至ったとのシナリオです。現ルーヴル作品が指輪をしていない点も、そもそも正妻ではないからという説明ができます」。これまで私は「モデルはリザ」説を支持してきたが、この説得力ある主張に接し、気持ちがかなり揺らいできました。