ラファエロは、単なる儚げな夭折の画家ではなく、描出力向上に熱心な、タフな野心家であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2117)】
カワヅザクラの蕾が膨らんできました。3密を避けた場所で、女房が私の誕生日を祝ってくれました。因みに、本日の歩数は13,469でした。
閑話休題、『ラファエロ――ルネサンスの天才芸術家(カラー版)』(深田麻里亜著、中公新書)は、ラファエロ・サンツィオの生涯と作品の全体像を俯瞰できる一冊です。
とりわけ興味深いのは、同時代の巨人、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティとの関係です。
「当時の絵画作品は、まずもって人物の表現が中心的なテーマであったので、人間をどのように表すかは大きな課題であった。ラファエロはフィレンツェで、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの先進的作品に接し、人物像のポーズ、人物をどのように構成し空間内に配置するか、という点で改良を重ねる。さらに色彩や陰翳表現など、あらゆる要素を学び、作風を徐々に変化させていく。ラファエロがフィレンツェにやってきた1504年は、ミケランジェロの『ダヴィデ』が完成した年である。・・・ラファエロはその堂々とした姿を背後からスケッチし、人体のプロポーション、骨格や筋肉の表現にアプローチを試みている。・・・ラファエロもまた、二人(レオナルドとミケランジェロ)の(シニョリーア宮殿の壁画の)競作の評判を耳にして、フィレンツェに引き付けられた一人だったのである」。
「レオナルドはウルビーノ出身の若い画家ラファエロを歓待したようで、手掛けていた未完成の作品や、準備素描を見せることも多かったと思われる。・・・レオナルドの構想が直接に示された素描や、未完成の絵画を見ることは、ラファエロにとって貴重な機会となった。レオナルドの絵画は、ラファエロの生涯にわたり大きな影響をもたらしたといっても過言ではないだろう。当時フィレンツェで見ることができたレオナルドの代表作には、『ジョコンダ』の通称で知られる有名な『モナ・リザ』も含まれる。・・・ラファエロが製作途中の『モナ・リザ』を、おそらくレオナルドのアトリエで実見していたことは、構図がきわめて類似した(ラファエロの)スケッチを見れば明らかである。現状の『モナ・リザ』とは異なり、素描では女性の背後に2本の柱が描かれ、顔貌もいくぶん若々しい。こうした相違は、絵画が現在のかたちにいたる以前の状態をラファエロが知っており、その構図を反映して描いたため、とも推測される。素描では女性のミステリアスな眼差しや口元の表情がとらえられ、顔の側面など濃い陰影が差す箇所は、線のハッチングを重ねて表現するなど、素描の表現上の工夫も同時に見られるのである」。
「ラファエロはこうしたレオナルドの作品を学び、模倣することで、それまで身につけていた画風から徐々に脱していったのである。しかし、完全に追従するのではなく、自身なりの工夫を取り入れてもいる。人物のよりゆったりとした動きや、穏やかな風景描写から、絵画には優しげな美しさがあり、(師の)ペルジーノとも、レオナルドとも異なった彼自身の特色を備えていくのである」。
「人物像の表現に関して、(ラファエロに)重要な影響を与えたもう一人の芸術家は、ミケランジェロである。・・・ミケランジェロは後にローマで、ラファエロに明らかな対立姿勢を見せるようになるが、フィレンツェでは比較的良好な関係を保っていたようである。・・・こうしたフィレンツェの先達の芸術を学び、新たな構造の工夫のプロセスが結実した作品と言えるのが、ラファエロによる聖母子と洗礼者聖ヨハネを描いた3点の聖母子画である。・・・ラファエロは、レオナルドとミケランジャロという偉大な芸術家たちの造形感覚をよく学び、それらを取捨選択した上で独自の構成に到達した。・・・ラファエロは先達に学びながら、彼らとは異なった工夫を積み重ねていった。そしてペルジーノ的な定型表現を抜け出し、人物のポーズや配置をより自由に展開し、穏やかで優しげな要素を備えた、独自の優美な聖母子を描くに至ったのである」。
「祭壇画の代表と言えるのが、『シストの聖母(マドンナ・システィーナ)』であり、個人用の聖母子画の代表が『小椅子の聖母』であろう。これら2つの作品は、ラファエロの聖母子画の傑作であり、西洋絵画史でも、ラファエロの名声の高まりと呼応して一種の神話的な価値観を帯びていく」。
「(システィーナ礼拝堂の)天井画制作中のミケランジェロは、制作過程を周囲に見せることを望まなかったが、ラファエロは秘密裏にその出来栄えを見たようだ。・・・ラファエロがその描写を知り、なおかつ即座にその作風を模倣し、制作途中の『署名の間』装飾に反映させたことがうかがえるのである。・・・ミケランジョロが、こうしたブラマンテとラファエロの行動に警戒感を抱いたことは想像に難くない。さらに、両者の絵画を比較し評価する周囲の声も、ミケランジェロのラファエロへの反感を助長させていった。・・・このような風潮を、そもそもラファエロが自身の作風を模倣していると知っていたミケランジェロが面白く思わなかったのは当然であろう」。
ラファエロはかなりの女好きだったと伝えられています。「伝説的なラファエロの愛人『フォルナリーナ(粉屋<パン屋>の娘の意)』は、19世紀後半、複数の史料との関連から、マルゲリータ・ルーティという名であったと判断が下されることになった。ある研究者が、1520年8月、つまりラファエロの死から数ヵ月後、『シエナのフランチェスコ・ルーティの娘、未亡人のマルゲリータ』が、ローマの女子修道院に入ったという文書を発見した」。
「ラファエロは1520年4月6日金曜日、37歳で他界した。・・・彼は単なる儚げな夭折の画家ではなく、若年のうちから古今の芸術を熱心に学び、ステップアップした野心家であった。宮廷の貴族たちと交流をもつ宮廷人でもあり、さらに、周囲の芸術家たちをまとめる監督者、古代ローマの芸術と都市について調査を行う考古学者でもあった。精力的な活動に従事したタフな側面があり、関わった注文者や神学者、人文主義者、芸術家たちの動向と合わせて見ていくと、その世界観は大きく広がっていく。ラファエロをとりまく文化的環境は実に広く、作品は一見シンプルでありながら、多彩な要素に満ちている。『優美』という一言では形容することのできない、堂々とした重みがそこには秘められているのである。したがって、ラファエロとその周縁に親しむことには、美術作品と美術史に向き合う楽しさそのものが凝縮されていると言えるだろう」。
天才的な面だけでなく、豊かな人間味も併せ持つラファエロに親しみを感じてしまいました。