榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

夏目漱石の秘められた恋人の謎・・・【リーダーのための読書論(1)】

【医薬経済 2007年4月1日号】 リーダーのための読書論(1)

夏目漱石がニ十数年間も親友の妻を思い続けていたなんて、あの謹厳そうな肖像から想像できるだろうか。

漱石については語り尽くされた観があるが、私には漱石の2つの点が気にかかる。

その一つは、漱石は作家としては珍しく、多彩な人材を育んだという点だ。木曜ごとに漱石の自宅、いわゆる漱石山房に門下生たちが集まるのが、明治39年以来、漱石の死に至るまで続いた習慣であった。この漱石山房から、寺田寅彦、阿部次郎、岩波茂雄、和辻哲郎、芥川龍之介をはじめ、多くの俊秀たちが育っていった。自分の果たすべき仕事をきっちりとこなしながら、後進を大きく育てていくというのは、男として、望み得る最高の生き方だと思う。

気にかかるもう一つの点は、漱石の作品には三角関係、不倫の関係が繰り返し執拗に扱われていることだ。これだけ一貫して三角関係のモチーフが追究され続けた背景には、漱石自身の切実な恋愛体験(原体験)があったはずだというのが、漱石研究者の間での定説となっている。

漱石が結婚後も思い続けた女性は誰か。漱石の親友で、のちに東大教授になった大塚保治の妻、大塚楠緒子(くすおこ)こそが漱石の永遠のマドンナだという。楠緒子は名門の一人娘、お茶の水高女出身で、雑誌に小説や短歌を発表する才媛であった。その上、容姿の美しいことも抜群で、当時のエリート帝大生注視の的となっていた女性である。漱石は若き日、親友の保治とこの楠緒子を争う立場に置かれるが、結果的には保治に楠緒子を譲った形となり、自分はやけっぱち気味に気に染まぬ結婚をしてしまう。しかし楠緒子を忘れることなどできるはずがない。

この3人の人間関係は、漱石の作品『それから』(新潮文庫)の人間関係に何と似通っていることか。漱石と楠緒子は互いに愛し合っていながら、現実においては一言半句も打ち明けることなく、互いの詩歌・小説を通して星の瞬きのように愛の信号を交わすことしか許されなかった。楠緒子との不倫の恋が現実に実行されたらどうなるかを実験的に描いたのが『それから』であり、続く第2の実験が『』(新潮文庫)、第3の実験が『こころ』(新潮文庫)だと言えよう。漱石自身が述べているように、『それから』が『三四郎』(新潮文庫)の、『門』が『それから』の後日談であり、『三四郎』、『それから』、『門』が愛の三部作を成すことは明らかであるが、私は勝手に、これに『こころ』を加えて四部作と見做している。楠緒子を巡る三角関係は、漱石の生涯における克服すべき大事業であり、楠緒子に対する熱い思いと三角関係の苦しさ、親友に対する罪の意識が、漱石にこれらの一連の作品を書かせたのだ。

漱石の原体験の相手を楠緒子だとする説(『漱石の愛と文学』小坂晋著、講談社。出版元品切れ)以外にもさまざまな説があるが、楠緒子説が最も説得力がある。漱石は誠実であるとともに文学的には極めて老獪な作家である。そう簡単に自分の秘密の恋人が誰それだと見破られるようなしっぽは出さないだろうが、漱石が楠緒子に愛情を抱いていたとの推測は、芥川ら門下生の間で囁かれていたという。

このような作品の背景を知らなくても漱石の作品を楽しむことはできる。しかし、秘められた恋人の存在を知ってからは、漱石とその作品にぐっと親しみが増してくる。