一度きりの人生をどう生きるか・・・【リーダーのための読書論(39)】
A その『人生の午後を生きる』(宮迫千鶴著、筑摩書房)って、どんな本なの?
B 画家、評論家、エッセイストの著者が、40歳の時、静岡の伊豆高原に転居する。そこでの、海を愛で、雑木林を散歩し、季節の移ろいを楽しむ暮らしぶりを綴ったエッセイだよ。
A その人は、誰かさんと一緒で、自然が好きなのね。
B 著者がこう言ってるよ。「『一度きり』はなにも自然だけの神秘ではない。私たちの人生もまた『一度きり』の神秘に満ちている。だから自然についてのセンスが敏感になるということは、この人生を生きることについてより敏感になるということなのである」って。60歳で亡くなったけど、夫によれば、「トシをとったいまのほうが心が落ち着いていてずっと幸福」と言っていたそうだよ。ところで、この『夢見つつ深く植えよ』(メイ・サートン著、武田尚子訳、みすず書房。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)もなかなか魅力的な本だよ。
A メイ・サートンって初めて聞く名前ね。
B 詩人で作家のサートンは、両親を亡くした46歳の独身女性。そのサートンが、未知の土地であるニューハンプシャー州のネルソンという片田舎に古い家を買って、独り暮らしを始める。「40代の女には、間違った相手や、間違った家や、間違った場所と結婚する余裕はない!」という悲壮な覚悟で決めたこの家が当たりだったか、外れだったかは、この自伝的エッセイを読んでのお楽しみ!
A 意地悪しないで、少しはヒントをくれてもいいんじゃない?
B 家も庭も相当荒れ果てていたんだけど、周りの人たちの助けを借りながら、徐々に自分好みの家と庭に造り替えていく。これが一筋縄ではいかない大仕事なんだ。特に、庭については、「老年の入り口にさしかかった者にとって、庭造りはなま易しい趣味ではない」、「庭造りほど多くを要求し、多くを与えるものがほかにあるだろうか」というサートンの言葉からも分かるように、この本は庭仕事の喜びと苦労の記録集でもあるんだ。
A アメリカでも、地方によっては人とのお付き合いが大変なんじゃない?
B 実に個性豊かな隣人たちが登場するんだけど、サートンの人物描写が見事なんで、人は誰も皆、それぞれの人生を必死に生きているんだなあと実感させられたよ。
A サートンは人生をどう考えているのかしら。
B 少し長くなるけど、読んでみるよ。「私たちが、誰にでも訪れる死の宣告が自分にも下されると信ずるようになるのは、漸く50代も半ばを過ぎてからだ。20歳の時、私たちは不死身だ。50歳では、人は生活に忙しくて、終末を考える余裕がない。けれど55歳を過ぎると死の予覚のために、我々の最も内奥の生活の質が変わる。突如として時間は圧縮される。生きること自体がかつてなかったほど貴重になる。浪費を慎み、自分にとって重要なことと重要でないことを鋭敏に自覚しなくてはならなくなる。若い時ならではの楽しみがあるように、人生の半ばを過ぎての楽しみもある」。それから、「体験は私の燃料だ。私はそれを燃やしながら生きてゆくだろう。生涯の終わりに、燃やされなかった1本の薪も残ることのないように」。
A 彼女は現在も活躍中なの?
B 83歳で亡くなる直前まで精力的に作品を発表し続けたんだよ。
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