榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

クラシックは聴かなくてもいいという偏屈な入門書・・・【山椒読書論(56)】

【amazon 『聴かなくても語れるクラシック』 カスタマーレビュー 2012年8月10日】 山椒読書論(56)

クラシックといえば、ヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルトのCDばかり聴いていて、他の作曲家の作品にはとんと食指が動かない偏屈者の私であるが、『聴かなくても語れるクラシック』(中川右介著、日経プレミアシリーズ・日本経済新聞出版社)は、私に劣らず偏屈な本だ。

クラシックの入門書は、作曲家、演奏家の紹介と、その名曲がリスト・アップされ、これらをどんどん聴きましょうというものがほとんどなのに、この本は、聴かなくても、クラシックを語ることでそれなりの効用が得られると主張するのだ。

確かに、この本に教えられたことは、いろいろある。例えば、「運命」「悲愴」「別れの曲」「子犬のワルツ」「ジュピター」「皇帝」などの曲名は、作曲家自身が付けたものではなく、興行師や楽譜出版会社、レコード会社が勝手に付けたニックネームだということ。しかも、「運命」「別れの曲」などに至っては、日本でしか通用しない曲名だというのだ。

ビジネスの視点からは、「モーツァルトは自主興行の元祖」、「『○○伯爵への献呈曲』というのは、ベートーヴェンが生み出した新商法」、「CDの規格が12cm、75分になったのは、ソニーの大賀社長と親しかったカラヤンが後ろ盾になってくれたおかげ」、「偉そうに見えても、指揮者は雇われ現場監督」、「カラヤンは、ライヴとレコーディングを連動させるという画期的なビジネス・モデルを確立したトップ・セールスマン」、「17~18世紀の音楽家は王侯貴族か教会に雇われていたサラリーマン」といったエピソードが興味深い。

クラシックは、「運命」「別れの曲」「ジュピター」「皇帝」といった曲名から連想されるような内容を表現しているものではない、と著者が強調しているが、そう思い込んでいた私は、この指摘には本当に驚いた。

著者の「聴かなくてもいい」というのは、食わず嫌いの人たちに対する逆説的な表現だと勘ぐっている。なぜなら、気に入ったクラシックを聴くと、辛いときは慰められ、嬉しいときは喜びが何倍にも感じられるからだ。このクラシック効果を知らずに人生を終えてしまうというのでは、何とももったいないことだ。