榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

社会的敗者は、無理に勝者になろうとしなくてもいいのだ・・・【山椒読書論(67)】

【amazon 『敗者たちの想像力』 カスタマーレビュー 2012年9月10日】 山椒読書論(67)

私がこれまで見たテレビ・ドラマの中で一番好きなのは、1976年にTBSで17回に亘って放映された山田太一原作・脚本の「高原へいらっしゃい」である。田宮二郎演じる落魄したホテルマンが、それぞれ人には言えない過去を背負った男女(演じたのは、由美かおる、潮哲也、池波志乃、徳川龍峰、古今亭八朝、前田吟、益田喜頓、常田富士男、北林谷栄、尾藤イサオ)に、このさびれた八ヶ岳の高原ホテルを一緒に再建しようと呼びかける。その後の彼らの悪戦苦闘ぶりに、私たちも一喜一憂させられたものである。また、小室等の「お早うの朝」という、のんびりした主題歌がドラマにぴったり合っていた。

このドラマにはまってしまった私たち夫婦は、早速、撮影の舞台となった八ヶ岳高原ヒュッテに泊まりにいったのである(現在は、宿泊できない)。そこで求めたかなり大きなヒュッテのポスター写真は、現在も私の書斎の一角を占めている。そして、夏が巡ってくると、自分で録画したこのドラマのビデオが無性に見たくなるのである。

一方、『丘の上の向日葵』(山田太一著、新潮文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、最も好きな小説の一つである。妻のいる平凡な中年の会社員が、帰宅の途中、見知らぬ美女を彼女の家まで送っていく羽目になる。やがて、この女性と2晩に亘り、狂熱の30数時間を過ごすことになるが、その直後、女性は姿を消してしまう。何とも不思議な、そして妙にエロティックな小説である。後に山田脚本でテレビ・ドラマ化されたが、想像力を掻き立てられるという点で、本には敵わなかった。

このような山田ファンの私が、「脚本家 山田太一」というサブ・タイトルを持つ『敗者たちの想像力――脚本家 山田太一』(長谷正人著、岩波書店)を手にするのは、自然の成り行きであった。

結論から言うと、残念ながら、この本では、「ふぞろいの林檎たち」「岸辺のアルバム」「男たちの旅路」といった山田の代表作とされるドラマへの言及が多く、「高原へいらっしゃい」については、たった5行しか触れられていない。「丘の上の向日葵」に至っては、巻末の「主要なテレビドラマ作品」リストに記載されているだけである。

それなら、この本を読んでがっかりしたのかというと、決して、そうではないのだ。

著者は、「敗者が敗者であるがままに肯定され、光輝くような社会空間の可能性」を求めて、「若者、老人、障害者、主婦といった私的空間で生きるマイナーな人々が、公的空間において勝者として自らを輝かせることによってではなく、私的空間に弱者として生きるままに輝くことのできるような別の可能性はないのか。それを彼(山田)のドラマ作品を読み解くことを通して探求した」と語っている。

「『岸辺のアルバム』も『男たちの旅路』も『ふぞろいの林檎たち』も『想い出づくり。』も、70年代当時の家族や社会のありようを批判する理性的なドラマというよりは、むしろ公的社会のなかで活躍できない、浪人生、主婦、時代遅れの戦中派、四流大学生、高卒のOLなどを登場させ、彼らをそのような社会的敗者の位置から成り上がっていく『勝利』の過程においてではなく、反対に『敗者』であるままでいかに肯定し救済し得るかを問うた作品なのだった。つまり、そのとき初めて私は山田太一の『敗者の想像力』を感じ取ることができた」のである。

「必死に夢にしがみついて『勝者』になろうと頑張っている人々こそ、実は自分の能力のなさに秘かに劣等感を抱えている『敗者』ではないだろうか。だから私たちは、『勝者の思想』に対抗して『敗者の思想』を叩きつけるのではなく、反対に『勝者』をもやさしく包み込んでしまうような、もう一つ別の『敗者の思想』を考えることはできないだろうか」という著者の問いかけが、私の心に重く沈んでいる。