榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

最高権力者・藤原道長は涙脆く、怒りっぽい人物だった・・・【山椒読書論(189)】

【amazon 『藤原道長の日常生活』 カスタマーレビュー 2013年5月19日】 山椒読書論(189)

『源氏物語』に登場する光源氏のような平安時代の上流貴族は、どのような日常生活を送っていたのか。『藤原道長の日常生活』(倉本一宏著、講談社現代新書)は、この疑問に答えてくれるだけでなく、その日常生活を通して、摂関政治を確立した平安朝最大の実力者・藤原道長の実像に迫っている。その上、道長が打った数々の政治的な布石に、摂関政治衰退の種が胚胎していたという歴史の皮肉にまで筆が及んでいる。

なぜ、こんなに昔の人物である道長の日常生活が分かるかというと、道長自身の手になる33歳から56歳までの『御堂関白記』と、政権幹部の藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記』という日記が残されているからである。因みに、『御堂関白記』は世界最古の自筆日記である。

よく知られている道長が詠んだ和歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば(この世を我が世と思う。望月が欠けることもないと思うので)」の印象が強く、道長は傲慢な独裁者と思われがちであるが、この本を読むと、そのように単純な人物ではないことが分かる。彼は、小心と大胆、繊細と磊落、親切と冷淡、寛容と残忍、協調と独断が入り交じった多面的で複雑な人間であった。

「道長は感激屋である」、「自分の行為に対して素直に自讃したり、またその場の雰囲気に合わせて冗談(興言)を言ったりすることが多い」、「その反面、道長はたいそう怒りっぽい人でもあった」、「一方で、道長は非常に気弱な人でもあった」、「道長がいろいろなことを忘れたという記載も、しばしば記されている」、「道長ほどの権力を持っているのであるから、言い訳などせずに開き直ればいいものを、小心者の道長は、よく言い訳を日記に記している」――あたかも我々の身近な上司かのように、道長の人間性が生き生きと伝わってくるではないか。

これ以外にも、本書には興味深いことがいろいろと記されている。

「一般に平安時代の貴族たちに対する理解というのは、彼らが遊宴と恋愛のみに熱意を示し、毎日ぶらぶら過ごしていた、というものであろうと思われる。しかしながら、それは主に、女流文学作品に登場する男性貴族たち(象徴的には光源氏)の姿を、現実の平安貴族の生活のすべてと勘違いしてしまったことによる誤解である。仮名文学を記した女性たちにとっては、男というものは自分たちのいる場所に夜になると遊びに来る生物なのであり、その世界においてしか知らない。・・・平安貴族の政務や儀式が、質量ともにいかに激烈なものであったかは、当時の古記録をちょっと眺めれば、すぐに理解できるところである。彼らにはめったに休日もなく、儀式や政務は、連日、深夜までつづいていた」。

「平安貴族というと、妻問婚による一夫多妻を思い浮かべる人も多いと思うが、実際には彼らは嫡妻と同居していたのであり(というより、その女性の家に婿入りしたのである)、一時的には妻は一人しかいなかった人が多いのである」。

道長にとって権力掌握のための掌中の珠であった長女の彰子(中宮)が、父の強引なやり方に不満を抱いていたとは、意外であった。「寛弘8年5月22日、一条(天皇)は病に倒れた。道長はさっそくに譲位工作を開始し、一条に敦康(一条の第一皇子)立太子を諦めさせ、敦成(彰子の息子。道長の外孫)立太子を実現した。その際、道長は一条との交渉を彰子には隠秘したが、敦康に同情し、一条の意を体していた彰子は、その意志が道長に無視されたことに対し、『丞相(道長)を怨み奉られた』という(『権記』)」。そして、彰子は道長が61歳で亡くなった後、天皇家の長・藤原氏の長として、国の頂点に立ち、後一条、後朱雀、後冷泉、後三条、白河天皇に至る治世を見届け、86歳で亡くなるのである。

「実資は、彰子との連絡を『越後守為時の女(むすめ)』つまり紫式部を介しておこなっていたことが、『小右記』からうかがえる」。

「(『蜻蛉日記』の作者の一人息子の)道綱というのは無能で知られた人物であったが、道長はこの11歳年長の異母兄を『一家の兄』として尊重している」。

異なった立場・視点から書かれた当時の3種の日記という一級史料に裏付けられているだけに、本書の内容は有無を言わせぬ説得力を有している。