榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

老いても学びを忘れるな・・・【山椒読書論(403)】

【amazon 『50歳からの勉強法』 カスタマーレビュー 2014年1月30日】 山椒読書論(403)

50歳からの勉強法』(童門冬二著、サンマーク出版)は、50歳の人に限らず、20代の人にも80代の人にとっても参考になる。

「50歳以降の(「起承転結」ならぬ「起承転々」の)転々の日々を有意義なもの、実り多いものにするためにはどうしたらいいか。そのもっとも有効な方法が、ぼくは『学び』であると思います。すなわち、いくつになっても知的な好奇心や探究心を失うことなく、自分の知識や能力や教養や見識(つまり人間としての総合力)を少しでも高めるべく勉強を怠らないこと。その老いてもなお学びを忘れない姿勢が、流動的で不安定な転々の人生に確たる骨格を与え、その時間を豊潤なものにしてくれるのです」。

「この世における持ち時間が少ないからこそ、眼前の仕事にこれまで以上に力を注ぎ、わずかなりとも前へ前へと漕ぎ進んでいかなくてはならない。だから、年齢を理由に手抜きをしない、先延ばしをしない。『終身現役、一生勉強』をモットーに、死を迎える日まで『これでよし』とサヤにおさまることなく、『まだ不足、まだ未熟』と自戒しながら、命を最後の一滴まで燃焼させたい――」。私も人生の持ち時間が減ってきたので、共感できるなあ。

「モンテーニュはその随想録の中で、『人間は自分だけの三畳間をもつことが必要だ』といった意味のことを述べています。この一文に、ぼくはかつて天啓に近い衝撃を受けたことがあります。他者とのかかわりをいっさい断って、ものを考え、判断する自分だけの場所。孤独の思想を営む場所。そういう空間が物理的にも、精神的にも人間には必要である――」。著者の場合は、街中の行きつけの飲食店ということだが、私にとっては、出入り口以外は本に囲まれた小さな書斎が、そういう場所となっている。

「同じ絵を画集で見ても、(実物を見たときの)そこまでの蘇生感は得られないでしょう。画集は一種の干物であるからです。やはり実物、なまの情報に触れることに勝るものはありません。その『なまもの』の典型は何か。世間にぎっしりと生息している人間です。会う人みなわが師。人間こそがもっとも学ぶべき対象であり、世間のいたるところに学びの教科書や参考書が歩いているのです」。全く、同感である。

「時限蒸発」とは何か。「ぼくは『生き物』としての自分の弱さを知っています。心身ともに行き詰まって、にっちもさっちも行かなくなるときがある。そういうとき、ぼくがとる手段が、『時限蒸発』です。いっとき自分で自分の行方をくらましてしまう。そうして完全に孤独でひとりきりになれる時間と空間の中に身を置く。いわば自主的な行方不明のことですが、そういう環境に身を置いてはじめて、ぼくの心身の疲れやこわばりはほどけ出し、精神の均衡をふたたび取り戻すことができるのです」。こうして、休暇の終わった兵士よろしく日常という戦場へ戻っていくわけだ。

歴史から学ぶときの注意点。「ひとりの(歴史的)人物に全人的にのめりこむのでなく、複数の人間から『部分的』に学べということです。信長からは決断力、秀吉からは人心掌握力、家康からは知謀力。そのようにいろいろな人物から、それぞれの長所や利点を『いいとこどり』する。それが賢明で実用的な歴史の学び方であるといえます」。こういう複眼的な姿勢は、ぜひとも見倣わなければ。

「かりにここに、恥や悔い、迷いや悩みなどの『負』の側面をまったくもたない人間がいるとします。彼は生き方上手でスマートで、目的までは一直線に最短距離を行き、一片の罪も悪もなさず、失敗や挫折とも無縁で、人を傷つけず、自分も無傷である。こういう人間がいるとして、彼は果たして人生から充実感や幸福感を得ることができるか。苦があるから楽があるように、自分の中に罪の意識、悪の自覚があるから人のそれにやさしく接することができるように、不恰好であるがゆえに、生きている時間の一滴一滴がブドウ酒のように濃密で、尊いものとなるのではないか。生きがいや幸福の調味料となるのではないか」。そうだ、そうだ、そのとおりだ。

「しかし、そうした負の要素を調味料として、人生を生きるに値するものとするにはひとつ大きな条件がある。それが『学び』であると、ぼくは考えます。そうした広い意味での人生勉強を忘れないとき、恥や後悔を乗り越えて、『いざ、生きめやも』という前向きな気持ちが自分の中に養われる」。本書を読むと、年齢を超えて、生きる勇気が湧いてくる。