榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「近江聖人」中江藤樹は、意外なことにドロップアウトしていた・・・【山椒読書論(453)】

【amazon 『中江藤樹・異形の聖人』 カスタマーレビュー 2014年6月9日】 山椒読書論(453)

私は、幼い頃、読んだ絵本『近江聖人中江藤樹』(羽石光志画、徳永寿美子文、講談社の絵本。出版元品切れ)の影響で、中江藤樹(とうじゅ)に尊敬の念を抱いてきた。その後、『代表的日本人』(内村鑑三著、鈴木範久訳、岩波文庫)で採り上げられている「中江藤樹」によって、その思いはさらに深まっていったのである。

ところが、今回、手にした『中江藤樹・異形の聖人――ある陽明学者の苦悩と回生』(大橋健二著、現代書館)は、私の藤樹像を大きく揺るがすものであった。無類の親孝行者で、「近江聖人」と呼ばれ、村人から慕われた教育者というイメージの根底に、藩という組織からのドロップアウトという重い事実が横たわっていたのである。「徳川幕藩体制の創成期に生をうけた『近江聖人』こと中江藤樹(1608~48)は、武士として生活していた現実社会から自ら離脱撤退し、ひとり自己沈潜の道を選び、門人を教える中で『生』の意味、意義を明らかにしようと試みた江戸時代人=近代人の一人であったというのが、本書の基本的立場である」。

自らの絶望と脱藩を「精神向上、飛躍の契機として自己変革、自己完成に全情熱をそそぎ、崇高な人間性を獲得していった姿にこそ、その人の真の偉大さがある」という著者の指摘は、非常に説得力がある。

多くの研究者は、藤樹を「孝を実践した高徳の儒者、名利を避け、清貧のなかで学問と教育に明け暮れた文句のつけようのない人格者にして教育者、思想家として」高く評価している。一方、「武士社会の落伍者、脱サラ者」と見做し、「武士社会の中で『失敗』し、故郷に『逃げ帰り』、武士廃業の後は酒屋、高利貸しを営む商人となり、農民を主とする庶民教育に従事した『無籍者』、いわば社会的異端者であった」と決めつける研究者もいる。

著者は、藤樹の門人について、「地元の農民、町民などの庶民が多かったが、脱藩するまで藤樹が禄を食んでいた伊予大洲藩士(30余人)など武士階級も少なくなかった。なかでも、備前岡山藩主池田光政を補佐し、江戸期屈指の経世家として高名な熊沢蕃山(1619~91)、藤樹の忠実な継承者で会津地方に藤樹学を伝えた淵岡山(1617~86)の両名が、藤樹門下の双璧として著名である」と記している。

藤樹は「日本陽明学の祖」と呼ばれることが多いが、「現在では、藤樹の学問は、陽明学でも朱子学でもなく、彼独自の『藤樹学』であるとされるのがほぼ定説化している」。

「王陽明の説いた良知哲学は、自力主義に基づく自己実現・自己救済論を中核としながらも、その自己実現は一面、生死の彼岸に思惟と行動の基点を置き、熱烈なる理想主義者(『狂者』)として、わが胸中における是非を愚直に貫徹しようという烈しい気魂、それに裏打ちされた荒々しく烈々たる行動主義、実践哲学としての側面を間違いなく持つものである。陽明学はいわば、このような激しい行動への情熱をうちに秘めつつ、自己実現・自己救済論を核とする実践的な万物一体思想である。自己実現、自己救済に不可欠、不可分なものとして、身を殺して仁を為す底の社会的実践がある。中江藤樹は、陽明学の単なる祖述者に止まることなく、王陽明が心の本体とした良知を、至純なる誠として把握し独自の『藤樹心学』、他力本願的な『良知信仰』を開拓し展開したと吉田(公平)は指摘する。藤樹は、良知を信じ切ることによって、天地万物一体が実現すると考えていた。この意味で、藤樹の陽明学は、たしかに他力本願的な『良知信仰』、宗教的側面をもつものであった」。

私は、上記の定説には賛成できない。藤樹は陽明学を深く咀嚼し、見事に実践した陽明学者であったと確信しているからである。「正保元年(1644)、藤樹37歳のときの年譜は、是年、始テ『陽明全集』ヲ求得タリ。コレヲ読デ、甚ダ触発印証スルコトノ多キコトヲ悦ブ。其学弥(いよいよ)進ム。 と『王陽明全集』を大きな共感をもって読んだことを記している」ことからも明らかではないか。

また、藤樹は厳密には陽明学者とは呼べないと主張する研究者もいる。陽明学は自己実現(自己変革)と社会変革を両輪とするのに、藤樹は自己変革の実践のみで社会変革という行動面が欠落していると主張する研究者には、藤樹が情熱を傾けた教育は、社会変革の行動そのものだと反論したい。

「平々凡々、他に誇るものとてないにしろ、泰山喬木をその内ふところに包容して悠々迫らざる闊大な大地の如く生きよ。いたずらに外界に心を奪われたまま、世に称賛されることを求める浮ついた生き方を志向するより、まずわが一心を充実せしめよ。わが一心を溌剌として躍動せしめることができてはじめて、世に参するということができる。このような覚悟において、愚かでも普通のひとりの人間として生き、たとい平凡なまま生涯を終えたとしても、そこには貴いものが必ずや存在するはずだ。王陽明が『平地』という言葉に込めたメッセージとは、このようなところであろうか」。まさに、藤樹は王陽明の教えを愚直に実行し続けたのである。

本書は、藤樹の人間性についても生き生きと伝えている。「藤樹は、30歳の時、『三十にして室(妻)有り』(『礼記』)という儒教道徳に従って妻を迎えている。・・・器量が悪すぎるから離縁しろとたびたび催促する母親に対し、藤樹は『器量は悪いが、聡明であり、心が正しい』と妻を庇い、母親の要求を敢然として拒絶している」。この藤樹の毅然とした態度は、どれほど妻の心に沁みたことだろう。ますます藤樹が好きになってしまった。