榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

井原西鶴が、石川五右衛門を親不孝者として挙げた理由・・・【山椒読書論(553)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年5月13日号】 山椒読書論(553)

井原西鶴が『本朝二十不孝』で石川五右衛門を取り上げていることを知り、どう描いているのか確かめたい気持ちが高まり、『好色二代男・西鶴諸国ばなし・本朝二十不孝』(井原西鶴著、岩波書店・新 日本古典文学大系)を手にした。

本朝二十不孝』の「巻二」の「一 我と身をこがす釜が渕」では、五右衛門の父が五右衛門の親不孝ぶりを縷々述べる。続いて、大勢の手下を引き連れ、盗賊の頭として暴れ回る五右衛門が描かれる。

「後は、三百よ人の組下、石川が掟を背(そむき)、昼夜わかちもなく京都をさはがせ、程なく搦捕(からめとら)れ、世の見せしめに七条河原に引出され、大釜に油を焼立(やきたて)、是に親子を入て煎(にら)れにける。其身の熱(あつさ)を七歳になる子に払ひ、迚(とて)も遁(のが)れぬ今のまなるに、一子を我下に敷けるを、みし人笑へば、『不便(ふびん)さに最後を急ぐ』といへり。『己、その弁(わきまへ)あらば、かくは成(なる)まじ。親に縄かけし酬(むくひ)、目前の火宅、猶又の世は火の車、鬼の引肴になるべし』と、是を悪(にくま)ざるはなし」と結ばれている。

親不孝に止まらず、実の息子さえ下に敷いて熱さを逃れようとする五右衛門は、その見苦しさを笑われると、「熱さに苦しむ我が子を憐れみ、釜の底に敷いて早く死なせたのだ」と、嘯く始末。

西鶴ほどの作家なら、大盗賊・五右衛門の最期の場面に何か一捻りを加えているのではないかという私の期待は、ものの見事に裏切られた。単なる不幸者と決めつけているではないか。

正直言って、がっかりしたが、校注者の佐竹昭広の解説を読むに至って、気分が持ち直した。「そこは西鶴だけあって、『本朝』は本朝でも、中国の二十四孝をもじって『二十不孝』とネガティブな親子関係をテーマとし、反面教師をよそおって、見るとおりの興味津々たる悪漢小説(ピカレスク)を書き上げたのである」(暉峻康隆論文の引用)、「西鶴は彼(五右衛門)の生国を近江と設定した。五右衛門の生国など誰も知りはしない。それをあえて近江に設定した西鶴の意図は、彼を近江泥棒の巨魁として、近江聖人、中江藤樹と張り合わせるためであった。『本朝孝子伝』今世部四『中江惟命』、母の側近く仕えるために禄を辞して帰郷した中江藤樹を、懶斎は『千嗟篤孝性乎学乎』と絶賛した。それならば近江出身、極悪の親不孝者を紹介しようと、西鶴は五右衛門を近江泥棒の巨魁に仕立てた」と書かれているからだ。