榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

寺田寅彦の随筆は私の性に合わないと思い込んでいた・・・【山椒読書論(437)】

【amazon 『寺田寅彦随筆集(第1巻)』 カスタマーレビュー2014年4月20日】 山椒読書論(437)

正直言って、寺田寅彦の随筆は私の性に合わない。若い時に読んだ印象が未だに尾を引いているのだ。ところが、世上では、彼の随筆は科学と文学の見事な融合体だと評価が高い。それに、夏目漱石が寅彦を『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデルにしているということもあり、私の若気の至りだったかもしれないと、『寺田寅彦随筆集(第1巻』(小宮豊隆編、岩波文庫)を書棚から引っ張り出して読み返してみた。

収載されている「科学者と芸術家」という作品に、こういう一節がある。「科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。・・・科学者と芸術家の生命とするところは創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でないと同様に、他人の研究を繰り返すのみでは科学者の研究ではない。・・・科学者と芸術家とが相会うて肝胆相照らすべき機会があったら、二人はおそらく会心の握手をかわすに躊躇しないであろう。二人の目ざすところは同一な真の半面である」。物理学者であり随筆家でもあった寅彦は、恐らく、自分の体の中では科学と芸術が一体化していると自負していたことだろう。

「丸善と三越」は、こう綴られている。「東京へ出るようになってからは時々この丸善の二階に上がって棚の書物をすみからすみへと見て行くのが楽しみの一つであった。ほしい本はたくさんあっても財布の中はいつも乏しかった。しかしただ書棚の中に並んでいる書物の名をガラス戸越しにながめるだけでも自分には決して無意味ではなかった。ただそれだけで一種の興奮を感じ刺激と鞭撻を感ずるのであった」。寅彦の場合は洋書が対象であるが、読書好きの人間のワクワク感が伝わってくる。

「書物に含まれているものは過去ばかりではなくて、多くの未来の種が満載されている事を考えると、これらのたくさんの書物のまだ見ぬ内容が雲のようにまた波のように想像の地平線の上に湧き上がって来る」。この気持ち、分かるなあ。

「春六題」には、「近ごろ、アインシュタインの研究によってニュートンの力学が根底から打ちこわされた、というような話が世界じゅうで持てはやされている。これがこういう場合にお定まりであるようにいろいろに誤解され訛伝されている」、「それよりもいちばんいやな事は春が来るとこの自分が『悪人』になるからである」、「物質と生命の間に橋のかかるのはまだいつの事かわからない。生物学者や遺伝学者は生命を切り砕いて細胞の中へ追い込んだ。そしてさらにその中に踏み込んで染色体の内部に親と子の生命の連鎖をつかもうとして骨を折っている。物理学者や化学者は物質を磨り砕いて原子の内部に運転する電子の系統を探っている」という記述が見られる。これが1921(大正10)年4月に「新文学」に掲載された随筆だというのだから、興味深い。

どうも、随筆のみならず、寅彦という人物に対する私の印象も改めたほうがよいようだ。