中江藤樹は、真の教育者であった・・・【山椒読書論(465)】
『中江藤樹の生き方』(中江彰著、明徳出版社)は、80ページに満たない小冊子であるが、中江藤樹をより深く知りたいと思う者にとっては、見逃せない一冊である。
著者は、藤樹が日本陽明学の祖と呼ばれることに異を唱えている。「ここに、藤樹の独創を垣間見ることができ、藤樹をして『陽明学の信奉者』などといった極端なレッテルがはられていることが、いかに軽薄な説であるかが知られよう」。飽くまでも、藤樹は孔子が『大学』で説いた「明徳」を極めようとしたというのである。
本書は、藤樹が熊沢蕃山や淵岡山(ふちこうざん)といった武士階級の弟子たちを育てただけでなく、庶民の教育にも力を注いだことを強調している。「藤樹にまなんだ人々は、けっしてかれら武士階級だけではなかった。その当時、小川村をはじめ、近郷近在の被支配階層のいわゆる庶民(農民・職人・商人など)も、藤樹のおしえにふかく浴した。藤樹は、むしろ人口の八割以上をしめる無学文盲の庶民にたいする教育善導こそ、なによりも大切と考えた。それは、大洲藩士時代の郡奉行体験もそうであったが、牢人(浪人)となってかれらと苦楽をともにするなかで、よりいっそう醸成されたのではなかろうか」。
「藤樹が、実際にどのような村民教育をしたのかを解き明かすことのできる史料のひとつに、橘南谿(1753~1805)の紀行書『東遊記』がある」として、昼間、馬に乗せた飛脚が鞍の下に置き忘れた大金(現在の価格に換算すると、2000万円以上)に気づいた馬方が、八里離れた旅籠までその夜のうちに届け、一切お礼を受け取らなかったというエピソードを紹介している。この又左衛門という馬方は、常日頃、藤樹の教えを聞いていた一人だったのである。
「藤樹の村民教育は、藤樹の住居のとなりに建てられた会所(のちに藤樹書院といった)だけにとどまらず、近隣の村むらに藤樹みずから出向いての、いわゆる『出張講釈』もおこなわれた」。藤樹の真剣な打ち込みぶりが伝わってくる。
「西近江にかぎらず、いずれの街道の宿場町にあっても、いきおい『いちげん客』相手の商売ということで、そこには博打や山師が横行するなど、風俗が紊乱して、けっしてほめられたものではなかったはずである。そういう社会世相にあって、高島郡内のような醇風美俗は、きわめて特質な事例であったといえよう」。藤樹の教えは人々の心の奥まできちんと届いていたのである。藤樹は、真の教育者であった。