榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

史料から読み解く、江戸時代の身を売る女と、女を買う男の生態・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2048)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年11月22日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2048)

コサギ(写真1、2)が空を舞っています。カワウ(写真3)、マガモ(写真4、5)の雄、雌、ヒドリガモ(写真6)の雄、雌をカメラに収めました。キダチチョウセンアサガオ(エンジェルズトランペット。写真7、8)、オトメツバキ(写真9)が花を咲かせています。

閑話休題、『性からよむ江戸時代――生活の現場から』(沢山美果子著、岩波新書)は、史料を丹念に読み解くことによって、江戸時代の女と男の性の実態に迫った力作です。

本書が対象としているのは、江戸時代後期の18世紀後半から19世紀前半にかけての時代です。その時代の村や町に生きた、普通の人々の日常生活における女と男の性の営みが生々しく再現されています。

●妻との交合を記録し続けた小林一茶――。
「夫婦の性生活を丹念に記した小林一茶の『七番日記』の存在とその内容は、驚くべきものだった。そう思ったのは、私だけではない。『小林一茶』と題する芝居の脚本を書いた井上ひさしは、『あの<七番日記>の有名な<交合の記録>を読んでいると、教科書の一茶と性交の回数を必死になって記録している一茶とがどうしても結びつかなくて』と述べている。しかも『七番日記』は、単に一茶と妻の『交合の記録』にとどまらない内容を持つ。『月水』(月経)をはじめ女性の身体や、夫婦の性についての意識、夫婦の心情をも読み解くことのできる貴重な記録でもある」。52歳になって初めて妻(28歳)を迎えることができた一茶は、その喜びを率直に記しています。妻の菊は働き者で、門人指導で外泊の多かった一茶の留守を預かり、家事から畑仕事まで。女手一つでやってのけました。二人の間に3男1女が生まれるが、いずれも幼くして死んでしまい、菊自身も37歳で死去します。「菊と子どもたちの死は、一茶の梅毒に菊が感染し、4人の子どもたちも生まれつき虚弱児だったためとの指摘もある」。

「一茶と菊の交合の記録は、家の維持・存続のための子宝を求めつつ、快楽としての性欲の充足も求める一方で、性交を忌む禁忌を意識する女と男の姿を浮き彫りにする。性の現場での経験に光をあてるとき、そうした性と生殖をめぐる江戸時代の女と男の矛盾や葛藤が見えてくる」。

●村と藩まで巻き込んだ「不義の子」騒動――。
「生まれた子どもは夫の子か、それとも不義の子か。米沢藩領の山深い寒村でもめごとが起きた。文化2(1805)年のことである。夫婦の不和から離別となった妻が産んだ子どもをめぐるもめごとは、夫と妻、そしてそれぞれの家だけでなく、双方の村まで巻き込んでの騒動となり、さらには藩の裁定を願うに至った。そこに当事者たちの言い分を記した史料が残された」。もめごとが起きたがゆえに、多くは文字史料を残すこともなかった農民の女と男の口から発せられた言葉が、記録されたのです。

「自ら身を引く態度、何も言い訳はしないという態度、そして夫の子どもである根拠を夫婦の性関係にもとづいて答える態度など、(妻の)きやの証言からは、自らの名誉を守り恥辱を受けることをよしとしないある種の潔さと明確な意思が浮かび上がる。藩役人が述べる、夫を夫と思わず、我儘というきや像もまた、裏返せば、きやが家や夫によって管理されるだけではない、自分の意思で行動する女性であることを裏付けるものかもしれない。・・・自分の子ではないと妻の実家に直談判に行く(夫の)善次郎の姿からは、身勝手な男の姿が浮かび上がる」。

「この一件は、小さな山村で起きた夫婦不和のなかでの妊娠、出産をめぐる、いわば小さな出来事である。しかしもめごとを裁定する場に働く当事者相互の思惑や、家、村、藩の権力関係に焦点をあてて史料を読み解くとき、それは、女の身体と性の管理をめぐるもめごとでもあったことが見えてくる。夫婦の交わりの出発点となる結婚(縁定め)や離婚、再婚、夫婦の性の営み、そして生まれた子どもの問題は、江戸時代にあっては、女と男の関係にとどまらない、家、村、藩が深く介入する問題であった。きやと善次郎のもめごとをめぐる史料は、そのことを教えてくれる」。著者の深い読み解きに脱帽です。

●身を売る女、女を買う男――。
「江戸後期松江城下の遊所、和多見町にある豪商、瀧川伝右衛門家の分家に長く奉公した太助は、19世紀前半の文政9(1826)年から安政元(1854)年までの約30年間、太助の生涯でいえば47歳から75歳まで『大保恵(おぼえ)日記』と題する4冊の日記を書いている。この日記には和多見町の10軒の置屋と39人の遊女の源氏名が書きあげられ、源氏名には壱から十九までの番号が付されている。おそらく遊女の番付だろう。10軒の置屋は、それぞれ2人から多くても6人の遊女を抱える小規模なものだったようだ。そのほか日記には、性を売る女たちが、遊女、売女、酌取女、下女、芸子、小女、抱女、女郎とさまざまな名称で登場する。性を売る女たちが多様に存在し、買う男たちの階層もさまざまであった。日記には武士、そして太助も含めた町人の男たちが遊女を買ったことが記される」。

「隠売女(私娼)を検挙し(公認の)新吉原に送ることは、幕府の側からすれば公認の遊郭を守るという利益が、また新吉原の側からすれば営業の妨げを除くだけでなく、安価で遊女を獲得できるという利益があった。隠売女検挙の事例からは、公娼と私娼の区別の形骸化が進行していたことが見てとれる。その背後には、不安定な都市下層の家に生きる女たちが、性を売ることで生活の糧を得る生存の現実があった。しかし性買売を咎められ検挙されたのは、買う男たちではなく売る女たちである。また、私娼は取り締まられても、公娼は公認される。この幕府の政策の欺瞞のなかで、自らの性と生を踏みにじられることへの隠売女の怒りを、『藤岡屋日記』の歌は表現している」。

この身を売る女と、女を買う男の関係は、現代にも通じる看過できない問題ですね。