榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

日本史上の「復興期」を担った人物・作品の系譜を辿ったユニークな文化論・・・【情熱的読書人間のないしょ話(87)】

【amazon 『復興文化論』 カスタマーレビュー 2015年6月10日】 情熱的読書人間のないしょ話(87)

庭のナツツバキが清楚な白い花を付けています。朝に開花し、夕には落花してしまう一日花です。これから1か月以上に亘り、毎日、数十の花が咲いては散っていくという華麗ではあるが無常観溢れる光景が繰り返されていくのです。

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無常観と言えば、日本人の無常観に異議を唱える『復興文化論――日本的創造の系譜』(福嶋亮大著、青土社)は刺激的な一冊です。「いまだに『淀みに浮かぶうたかた』のように明滅する無常の世界をうっとり眺めることばかりが日本の美的鑑賞の態度だとされる風潮には、私は断固として異議を唱えたい。(柿本)人麻呂や空海、『平家物語』や中上(健次)、(曲亭)馬琴や(上田)秋成、川端(康成)や三島(由紀夫)、あるいは手塚(治虫)や宮崎(駿)――、彼らの『復興』の営為を知った後で、果たしてあなたはそのようなふわふわした『無常観』の美学が、それでも日本文化の主流だと言い切ることができるだろうか?」。

1981年生まれという若い著者が、日本の困難な時期に続く「復興期」に存在感を示した人麻呂、空海から宮崎に至る人物・作品の系譜を追った著作ですが、そのユニークな論点の立て方に知的興奮を覚えてしまいました。

例えば、空海は空前絶後とも言うべき「超人的な行動力を備えた」天才であるという主張や、『平家物語』における木曾(源)義仲や源義経は華やかに扱われているとはいえ、自分の世界を所有していない「世界喪失者」としての地位しか与えられていないという指摘は新鮮でした。また、村上春樹に対する微妙な評価も興味深く読めました。

しかし、私がとりわけ強い印象を受けたのは、宮崎に関する部分でした。「手塚がアニメーションに対して抱いていた観念を、宮崎は『お金持ちの道楽』としてほとんど全否定している。(ウォルト・)ディズニーの衝撃から出発し、『鉄腕アトム』で日本のTVアニメーションの制作システムを築いた手塚のやり方は、宮崎にとって承服できないものであった。それゆえ、宮崎は日本の主流であるTVアニメーションの世界ではなく、あくまで劇場アニメーションの世界に身を置く。さらにディズニーのような産業化された巨大システムではなく、町工場的な小規模スタジオにおいてアニメーションを制作することにこだわる。その作品においても、宮崎は軍事兵器に対するアニアック偏愛を示しながら、『手仕事』の場面を毎回欠かさずに盛り込んできた。周知のように、宮崎のアニメーションには飛行機が頻出するが、そこには必ず飛行機をつくったり修理したりする『工作人(ホモ・ファーベル)』がともに描かれている。惚れ惚れするほどに自由な飛躍は、日々の地味な労働とメンテナンスのなかからしか生まれないというのが、宮崎の実直な職人的倫理なのである。逆に言えば、ディズニー=手塚の魔術的世界にはこうした『手仕事』の重みが欠けていた。それだけではない。ここで強調しておきたいのは、宮崎の作品が、ディズニー=手塚以来のアニメ―ションの歴史から零れ落ちた『自然』を復興していたことである。ディズニーがアメリカ的自然を、戦後の手塚が日本的自然=現実をそれぞれいったん抑圧したところに記号のユートピアを建設したのに対して、宮崎は自らの作品にことさら自然のイメージを呼び戻そうとしていた。それは文字通りサブカルチャーの失地回復であったと考えてよい」。

こういう挑戦的かつ刺激的な書き手の登場は、嬉しい限りです。