榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

一次資料の掘り起こしによって、南京大虐殺の存否に結論が出た・・・【情熱的読書人間のないしょ話(691)】

【amazon 『「南京事件」を調査せよ』 カスタマーレビュー 2017年3月10日】 情熱的読書人間のないしょ話(691)

朝焼けが綺麗です。散策中に、オオカマキリとハラビロカマキリの卵を見つけました。イラガの卵も見つかりました。立ち上がっているハボタンを見かけました。因みに、本日の歩数は10,667でした。

閑話休題、『南京事件」を調査せよ』(清水潔著、文藝春秋)は、南京大虐殺の存否を論じる上で決定的な意味を持つ書と言えます。

日中戦争中の1937年、中華民国の首都・南京占領の際に、日本軍が多数の捕虜や民間人を虐殺したのは事実か否かという問題が、肯定論者と否定論者の間で争われてきましたが、一次資料を掘り起こした本書によって、遂に結論が得られたのです。

本書は、真相追求に当たり、「虐殺の有無」と「被害者の数」を分けて検証することを提案しています。

黒須忠信上等兵の陣中日記帳の1937年12月16日のページには、「午后一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃湯ノ目的ニテ馬風山(=幕府山)方面ニ向フ、二三日前捕虜セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バカリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。山となって居ル死人ノ上をアガッテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒシガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ・・・ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ出来事デアツタ」と、青インクではっきり書かれています。

「(黒須の)日記には、福島の一農民が兵士へと転じて、略奪や殺害にまで手を染めていく様子が克明に残されていた」。しかも、他の将兵18人――宮本省吾少尉、遠藤高明少尉、近藤栄四郎伍長、本間正勝二等兵、菅野嘉雄一等兵、目黒福治伍長、柳沼和也上等兵、大寺隆上等兵、斎藤次郎輜重特務兵ら――の日記帳にも同様の記述が記されているのです。「最前線で書かれた幾冊もの日記。貴重な『一次資料』であり原本だった。戦後になり、利害関係が変貌してから作られたメモや本とは別次元のものだ」。

その上、黒須上等兵を初めとする兵士たちから、南京での出来事の聞き取りを続けてきた小野賢二のインタヴュー映像が残されているのです。

さらに、これらの日記の記述を裏付ける白黒写真が複数残されています。「背景は広い川だった。手前の岸辺に、多くの人が倒れている。防寒具を着た人たちだ。うつ伏せの人が目立っている。数名は膝を折ったままの格好で靴底が見えた。まるで正座をした人が背中から押されて転んだような姿。奇妙なのは人体の密度である。ほとんど隙間もなく折り重なるように倒れていた」(写真が掲載されています)。

「土手下と思われる場所にぎっしりと倒れている人々、火事現場の焼死体のように真っ黒だ。死体の間には炭化した木材が何本か転がっている。後方の階段上に4人の日本兵。うち1人は白いマスク姿だ」(この写真も掲載されています)。

何冊もの日記に書かれていた12月16日の銃殺。この揚子江岸で射殺された大勢の捕虜たちはどこから連れてこられたのでしょうか。12月14日の黒須上等兵の日記に、こう記されています。「敵の真中を打破りぐんぐん前進する途中敗残兵を六十五にて1800名以上捕虜にし其の他沢山の正規兵で合計5000人の敗残兵を十三師団にて捕虜にした」(片仮名が平仮名表記に改められています)。

上記の他に、第六十五聯隊第三機関銃中隊に所属していた兵士にインタヴューした時のものなど、相当数の録音テープが残されています。「やがて、静々とお客さん(=捕虜)たちがやってきた。捕虜たちが三十横隊ぐらいで、ぎっしり繋がって来たんですよ。びっしりとすごい数だった。建物と揚子江の間の細長い場所だから端の方はもう川に落っこちそうだった。本当にこれを撃つのかと・・・、そう思った・・・。指揮官からは『お客さんが到着しても、直ぐさま発射してはいけない。最後尾が入り終わったら将校が笛を吹くから発射しろ』と言われてました。やがて捕虜たちが足を止める。座った。ピーっと笛が鳴った・・・」。

南京戦の陸軍公式記録は敗戦時に焼却されてほとんど残っていませんが、ごく一部、奇跡的に見つかったものもあり、第六十五聯隊第一大隊の戦闘詳報などから、虐殺は軍の組織的命令だったことが明らかになっています。

従軍記者の今井正剛が、自分の目で見た惨状を吐露しています。「何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であったほかは、その大部分が南京市民であっただろうことは想像に難くなかった。揚子江の岸壁へ、市内の方々から集められた、少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかなくて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びているのだ。・・・もうすぐ朝が来る。とみれば、碼頭一面はまっ黒く折り重なった屍体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が、五十人、百人ばかり、ずるずるとその屍体をひきずって河の中へ投げ込んでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。しかも、パントマイムのような静寂。対岸がかすかに見えてきた。月夜の泥濘のように碼頭一面がにぶく光っている。血だ。やがて、作業を終えた『苦力たち』が河岸へ一列に並ばされた。ダダダッと機関銃の音。のけぞり、ひっくり返り、踊るようにしてその集団は河の中へ落ちて行った・・・」。

このように一次資料によって、後ろ手に縛ったままの銃殺、それでも生き残った捕虜を探し、石油をかけて火を付け、銃剣で刺すという、軍の組織的命令による全員殺害の全貌が白日の下に曝された以上、南京大虐殺はなかったという主張は、最早成り立ちません。

本書では南京大虐殺はなかったと主張する否定論者たちへの反論が列挙されていますが、一番強烈なパンチは、やはりこれでしょう。「当時の人口十数万人というのは、南京城内の『安全区』の人口であり南京周辺の人口としては100万人前後と言われている。ニューヨーク・タイムズやワシントンポストなどでは『南京事件』が報じられている」。

著者は、南京大虐殺の真実を明らかにする作業を続けながら、これと相通ずる現在の日本政治の翼賛的傾向に警鐘を鳴らしています。