榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

司馬遼太郎の鎌倉幕府論は、さすが、説得力がある・・・【情熱的読書人間のないしょ話(741)】

【amazon 『街道をゆく(42)――三浦半島記』 カスタマーレビュー 2017年4月29日】 情熱的読書人間のないしょ話(741)

散策中、黄色いキンラン、白いギンラン、薄紫色のノアザミ、白いオオアマナの花が咲いているのを見つけました。カンヒザクラ(ヒカンザクラ)が実を付けています。ツバメのカップルが巣作りに励んでいます。鯉幟が端午の節句を待ち構えています。

閑話休題、『街道をゆく(42)――三浦半島記』(司馬遼太郎著、朝日文庫)は、司馬遼太郎らしい見解のオン・パレードです。

武士の棟梁・源頼朝に期待された役割が明確に示されています。「ひとびとが頼朝に期待したのは、『京への申し立て人』になることであった。さらに、内に対しては、おのれども坂東(関東)たちのもめごとをさばく唯一人としてこの人を擁したのである。元来、関東の開拓農場主(武士)にとっての農地所有権は、日本法(律令)からみて、不安定だった。坂東人にとって、おのれか、おのれの父祖がその地を拓き、耕して農地にしたのである。が、律令制によって私有は認められなかった。その土地を公家や社寺に寄進し、みずからは下って、その管理人になった。この恒常的な不安のために、かれらは平安時代を通じ、京にのぼっては名義上の所有者である公家のもとに奴婢のように勤仕し、機嫌をとりつづけた。平安後期ごろから、その機嫌とりを、一手にひきうけたのが、源頼朝や平清盛の父祖たちだった。かれらは、『武士の棟梁』などとよばれた。京に常住して、その系列下の田舎武士たちのために口をきき、利害を代弁してきた。そういう『棟梁』自身、とくに高位をもつわけではなく、日ごろは公卿のために労をつくし、ときに犬馬のようにあつかわれてきた。その官位も、頼朝の父(源)義朝がわずかに左馬頭で、清盛の父(平)忠盛は、播磨や伊勢、備前などの守(国司)にすぎなかった」。

鎌倉幕府の歴史における画期性が高く評価されています。「鎌倉幕府がもしつくられなければ、その後の日本史は、二流の歴史だったろう。農民――武士という大いなる農民――が、政権をつくった。律令制の土地制度という不条理なものから、その農地をひらいた者や、その子孫が、頼朝の政権によって農地の所有をたしかなものにした。その影響は、人の心にあらわれた。現実の農地が現実の農場主のものになったことで――たとえば彫刻も写実的になり、絵画や文学もそのようになった。宗教において、その影響ははなはだしい。それまでの仏教は、思想的装飾が過剰で、僧侶でさえ仏教とは何かという正体がつかめなかった。鎌倉の世になって、形而上的装飾がはやらなくなり、簡潔で、直截で、勁いものになった。この時代に大いにおこる仏教思想を、人名で羅列しておく。法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元」。

一方、「鎌倉幕府の歴史は、血なまぐさい。武士という、京からみれば『奴婢』のような階層の者が、思いもよらずに政権を得た。馴れぬこの政権に興奮し、結局は、他を排するために、つねに武力を用いた」。

「正治元(1199)年10月のことで、三浦家を代表してきた(三浦)義澄はすでに老い、(三浦)義村の代になっていた。義村は、軽忽なところがあった」。この指摘には大いに不満があります。永井路子の「義村=恐るべき権謀家で、北条義時と並ぶ、日本の生んだ政治的人間の最高傑作」という説を信奉している私にとって、司馬の「義村は、軽忽なところがあった」という言い方はとても看過できるものではないのです。

「(北条)時頼が執権のころが世がもっとも安定したといわれる。時頼はしたたかだった。かれは北条氏とならんで幕府草分けのころに功労があった三浦氏を一族ことごとく討滅しているのである。しかし一面では公正そのものの政治家として、後世の評判がいい。晩年は入道し、ひとり諸国を歩き、世に不公平がないかと見てまわり、その遺事の一つの謡曲『鉢の木』では、最明寺入道という魅力的な旅の僧として表現されている。しかし時頼には諸国遍歴などの事実はなく、『鉢の木』はうそばなしだともいう」。『鉢の木』は私の一番好きな謡曲ですが、これは時頼の政治における公正さを顕彰しようとした人々の思いが結実したものと言えるでしょう。

島津氏家祖の頼朝落胤説は伝説に過ぎないと、司馬は否定的です。「家祖島津忠久は、頼朝の落胤だという。頼朝が、伊豆の蛭ケ小島に流人として暮らしていた時期、乳母の比企ノ禅尼が米塩を送っていた。その禅尼の娘で、京で公家奉公していた丹後という名の女性が治承3(1179)年に頼朝の子をうんだ。それが忠久だというのである。頼朝は妻政子を憚って、その子を畠山重忠にあずけた、という。治承3年は頼朝の挙兵の前年で、当時は畠山重忠は平家に属していたから、状況として頼朝の子をあずかるということはなかったはずだが、ともかくも、頼朝の落胤ということで、忠久が九州の島津ノ荘の地頭になったとされる。しかし、島津氏の家系は、忠久の出生よりずっと古いのである」。私も頼朝落胤説は眉唾物だと考えていたので、これですっきりしました。