榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

史実では、劉備と諸葛亮との人間関係は微妙であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(808)】

【amazon 『陳寿「三国志」』 カスタマーレビュー 2017年7月10日】 情熱的読書人間のないしょ話(808)

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閑話休題、『陳寿「三国志」――真の「英雄」とは何か』(渡邉義浩著、NHK出版・100分de名著)は、小説『三国志演義』ではなく、陳寿が著した正史『三国志』を通じて、英雄たちの真の人物像に迫ろうという著作です。

「三国時代もまた、400年間続いた漢という国家、そしてその疑いのない指針とされていた儒教が潰れようとしていました。既成の価値観が大いに揺らぐ状況の中で、先人たちはどのような歩みをたどり、時代を切り開いていったのか。このような問いかけを行うとき、私はやはり後世のフィクションではなく、同時代人である陳寿の著した『三国志』の中にこそ、そのヒントが数多く隠されているのではないかと思います」。

曹操は、このように評価されています。「(赤壁の戦いの)敗戦により、曹操生存中の中華統一は難しいものとなりました。南船北馬という言葉がありますが、曹操は強力な騎兵をすでに手中にしていたものの、中国南部での戦闘においては、水軍なしには戦えないことが明らかになりました。水軍の編成は、船をつくれば終了というわけではありません。水夫や水軍指揮に精通した将を養成しなければならないのです。翌209年には水軍の訓練を行っている曹操ですが、すでに50歳を越えた自分の寿命を考えたときに、曹操は『中国統一は難しい』と認識せざるを得なかったのです。ここで曹操は、漢および漢を支える儒教と真剣に向き合うことになります。曹操はまず、漢の人材登用制度に異議を唱えました。郷挙里選は『孝』『廉』など、儒教的徳目に適う人間性を前提としていました。これに対し曹操は、210年に出した布告において、『唯才是挙』(才能のみを推挙の基準とせよ)との方針を打ち出しています。曹操自身、もとより人間性よりも才能を重んじる主義でありました。しかし、この布告は、明らかに漢と儒教に対する挑戦でした。続いて曹操は、漢が儒教を文化的価値観の中心に置くことに対し、これまで尊重されなかった『文学』を称揚することで、その相対化を目指します。・・・曹操の政治的意図に基づく文学の称揚活動は、儒教の側に変革をもたらしました。具体的には、『聖なる漢』『永遠なる漢』を説く教義から、漢から魏への革命を容認する方向へ変化していったのです」。著者は、曹操を革新者と位置づけているのです。

「陳寿は曹操の事績を記した『三国志』武帝紀において、曹操を『抑々(そもそも)非常の人、超世の傑(並外れた人物で、時代を超えた英傑)と謂う可し』と評しています。実際に、彼の土地制度政策が400年後の隋・唐帝国の基本となっていくわけですから、その視野の広さや規模の大きさを後世から評価すると、まさに『超世の傑」、時代を超えた英雄といって差し支えないと思います』。『三国志演義』では劉備や諸葛亮の悪辣な敵役として描かれている曹操ですが、著者の真っ当な評価に接し、溜飲が下がりました。

一方、劉備と諸葛亮については、興味深いことが記されています。「劉備は、『三国志演義』では主役とされ、涙もろい聖人君子として描かれています。しかしそれは、関羽・張飛の『武』や諸葛亮の『智』を際立たせるための演出であり、実際には練達した戦闘技術で乱世に台頭した人物でした」。

「諸葛亮が劉備に仕えたのは、『三国志演義』のように劉備の人格に惹かれたという理由だけではありません。仕えるからにはみずからの発言力を確保し、荊州学の中で形成した国家戦略を実践したいとの強い意志がありました。そのためには、人事などをめぐって、劉備との対立も厭わなかったのです。実際、自身の政権内の基盤として、荊州系の人材を意識的に抜擢していました。一方、劉備は諸葛亮を牽制するかのように、法正という人材を重用し、尚書令という重要ポストを任せます。彼は長安周辺の出身で、益州に流れてきた人物でした。軍略に非常に優れていましたが、素行が悪く、諸葛亮とはそりが合わなかったようです。しかし劉備がこの法正を『愛信』していたため、諸葛亮は法正を咎めなかったとあります。『三国志演義』などでは、劉備が諸葛亮を『愛信』していたかのように描かれていますが、実際に劉備が『愛信』していたのは、非常に有能ながら、諸葛亮とそりの合わない人物だったのです」。

「(劉備の死後、劉備の遺児・劉禅に奉った出師表の)文中に頻繁に劉備との関係性が強調される背景には、劉備との信頼関係が不完全であったことが想起されます。ゆるぎない信頼関係があったのであれば、それほど繰り返し強調する必要はないからです。また劉備の名を繰り返し出すことにより、その威光を借りて劉禅を訓導しようとする姿勢も感じられます」。何ということでしょう。史実では、劉備と諸葛亮との人間関係は微妙であったというのです。

「184年の黄巾の乱よりおよそ100年は、英雄たちが、信じるもののためにその命を燃焼させた時代でした。曹操は、卓越した才気と激しい情熱により、400年続いた漢を事実上解体し、さらに先進的な次代への政治システムを準備しました。自分の理想を信じたのです。孫権は、優秀な人材に恵まれ、赤壁の窮地を脱し、江東に独立政権を樹立します。周囲の人を信じたと言えるでしょう。劉備は、深い情とカリスマ性により人心を集め、諸葛亮との出会いにより皇帝へと昇りつめました。そして諸葛亮は、みずからの理想とする漢室の復興に向けて奔走し、その道半ばでこの世を去りました。彼らはだれも最終的な勝者となってはいません。しかし、信じるものに命を懸けた英雄たちの姿は、混迷の時代を生きる私たちに多くの教訓をもたらしてくれるのではないでしょうか」。このように短い文章で、これほど簡潔かつ的確に三国時代を要約できるとは、驚くばかりです。