榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

三浦義村は、源実朝暗殺の黒幕だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1126)】

【amazon 『三浦一族の中世』 カスタマーレビュー 2018年5月23日】 情熱的読書人間のないしょ話(1126)

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閑話休題、私は、日本史上最高の権謀家は鎌倉時代の三浦義村と、江戸時代の一橋(徳川)治済だと考えています。私の独自の見解というわけではなく、義村については永井路子の影響を受けたものです。永井の『つわものの賦』(永井路子著、文春文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)の中の「雪の日の惨劇――三浦義村の場合」の章では、この恐るべき権謀家・義村の人物像が鮮やかに描出されています。著者は、義村こそ北条義時と並ぶ、日本の生んだ政治的人間の最高傑作だとまで言い切っているのです。

三浦一族の中世』(高橋秀樹著、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)の中で、義村がどう描かれているのかが気になり、本書を手にしました。

「政務に意欲を持ち始めた(源)実朝であったが、承久元(1219)年正月、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の儀から退出しようとしたところを、(源)頼家の遺児公暁に殺されてしまった。公暁は三浦義村を頼るが、義村はそれを受け容れず、かえって殺してしまう。この事件をめぐっては、北条義時を黒幕とする説(安田元久)と、三浦義村を黒幕とする説(永井路子、石井進)がある。しかし、出席した拝賀の儀で事件に遭遇してしまった貴族の言説に基づいている『愚管抄』の記事を見ても、公暁の行動は単独犯である。事件後に公暁が義村をたのんだのも、義村を鎌倉殿の第一の御家人と思ったからだという。そもそも『黒幕』なるものを想定する必要はあるまい、その想定は義時と義村の対立、利害関係を前提としている。しかし、義時と義村は決して対立する存在ではなく、常に(北条)政子・義時・義村、そして大江広元の連帯関係でこの時期の幕府政治が運営されていたことを忘れてはならない」。

著者は、このように義村黒幕説を真っ向から否定しているが、義村の人物像については、このように記しています。

「(鎌倉)幕府の体制や秩序を重んじ、高度な政治判断をもって肉親の情を捨てた義村の政治性」。

「(承久の乱を起こした)後鳥羽上皇が義時の後継に期待したのが三浦義村であることは言うまでもない。上皇は京都にいた弟の三浦胤義を通じて義村に働きかけたが、義時と一体だった義村はこれに動じず、胤義の書状を義時亭に持参して無二の忠を誓った」。

「(義村は)貴族たちが重視していた礼を弁えた人物で、十分な政治的判断力を有していた」。

「承久の乱後の戦後処理で朝廷に対して存在感を示した義村は、朝廷から見ると北条義時亡き後の幕府の顔であった。・・・朝廷が義村の意向をいかに気にしていたかがわかる(『明月記』嘉禄元年10月28日条)。・・・義村の意向が関白の地位を左右しかねないほどのものであると認識されていた点は間違いない。また、御堀河天皇の後継者が定まらない中で、義村が高倉天皇の孫交野宮の母方の叔父源通時と北条義時の娘を結婚させようとしたことを、(藤原)定家は『義村の八難六奇の謀略』と称した(『明月記』嘉禄元年10月19日条)。義村を漢の軍略家張良・陳平に比しているのである」。

これらの記述からは、義村が強かな政治的人間、権謀家であることが窺われます。私は、永井路子の説に分があると考えています。