榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

債権者に追われるヴィヴァルディが残した手稿譜が辿った数奇な運命・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1148)】

【amazon 『失われた手稿譜』 カスタマーレビュー 2018年6月15日】 情熱的読書人間のないしょ話(1148)

私は手先が不器用なことでは人後に落ちません。長らく手を付けられずにいたサソリの組み立て模型を、器用な人に委ねたところ、あっという間に完成させてしまいました。

閑話休題、書斎でパイヤール室内管弦楽団やイ・ムジチ合奏団によるアントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲集「四季」のCDを聴くのは、私にとって至福の時です。

そのヴィヴァルディが最晩年、債権者から逃れるために、ヴェネツィアからウィーンに逃避行を敢行したことを、『失われた手稿譜――ヴィヴァルディをめぐる物語』(フェデリーコ・マリア・サルデッリ著、関口英子・栗原俊秀訳、東京創元社)で知りました。

1740年5月27日、金曜日、ヴェネツィアのヴィヴァルディ司祭の館。「この5か月というもの、なにもかもが裏目に出ていた。いや、5か月どころではない。この2年、恐ろしいことの連続だった。次から次へと苦難が押し寄せる。オペラの公演は見送られ、出演料の支払いを求められ、借金は嵩み、取り立ては厳しくなるばかり。それまでずっと父親と高名な司祭である兄に依存してきた哀れな(未婚の)姉妹(二人)は、『アントニオ司祭』のために生きてきたようなものだった。・・・もはやヴェネツィアでは彼の音楽を聴きたがる者は一人としておらず、ここで生きるのは地獄だった。そこで5か月前、失意のアントニオは、サンタンジェロ劇場での最後のオペラ公演を終えると、ピエタ院の守銭奴たちに曲をいくつか売った。そうして手にしたわずかばかりの金を持って、夜のあいだにウィーンに向けて発ったのだった」。

「(完全な闇の中、アントニオの弟の)フランチェスコは、迷うことなく、よく知っている2つの大きな戸棚へと向かった。・・・自分の手で貴重な五線譜を戸棚から出し、然るべき方法で床に並べたかったのだ。兄のアントニオがどれほど几帳面で、手稿譜をどれほど丁寧に整理していたか、十分承知していたからだ。・・・楽譜の束を動かし、室外に運び出した」。こうして、債権者の手に渡らぬよう、弟の手によってヴィヴァルディの手稿譜と愛用のヴァイオリンが持ち出されたのです。

ヴィヴァルディがウィーンで客死したのは、1741年7月28日のことでした。

持ち出された手稿譜が、その後、辿った数奇な運命が、ほぼ史実に沿って明らかにされていきます。手稿譜に純粋な関心を寄せる古書愛好家の貴族、名家の窮乏に付け込んで買い叩こうとする欲に目が眩んだ司祭、遺産相続で揉める遺族たち、寄贈されても価値の分からない修道士たち、そしてユダヤ人の音楽学者から、ベニート・ムッソリーニ、ファシズムの広告塔を務めた詩人、エズラ・パウンドまで、手稿譜を巡り、さまざまな人間の愛憎、欲望、無知が複雑に絡まり合う様は、まるでミステリのようです。

1930年4月30日、トリノ。「幼くしてこの世を去った二人の子供が、ヴィヴァルディの失われた手稿譜を各々半分ずつ、日の当たる世界へと連れ戻す・・・。さながら、想像力に乏しい小説家による趣味の悪い作り話だ。しかし、事態は本当にこのとおりに運んだのだった。その結果、小さな天使マウロと小さな天使レンツォの名を冠した数百の未発表の傑作が、トリノに集められた。二度目の購入によってもたらされた歓喜と高揚で、トッリとジェンティーリは天にも昇る心地を味わっていた。音楽史に残る比類なき発見を称える記事が各国の主要紙に掲載され、祝意を伝える大量の手紙が毎日のように殺到した」。ルイージ・トッリとアルベルト・ジェンティーリの執念が遂に実ったのです。

1938年11月22日、火曜日、トリノのトリノ王立大学から自宅への道。「この日、アルベルト・ジェンティーリ教授は、篠突く雨にそぼ濡れていた。歌劇の作曲家であり、オーケストラの指揮者であり、リヒャルト・シュトラウスの友人であり、和声学に関する有名な理論書の著者であり、ヴィヴァルディを再発見して最初に楽譜の出版を手掛けた音楽学者であるジェンティーリ教授は、柱廊の下を避け、あえて車道を、普段よりもゆっくり歩いていた」。ジェンティーリは、ユダヤ人という理由で、この日、教授の地位を追われたのです。

実に読み応えのある一冊です。