榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

アジアには、北京原人、ジャワ原人、フローレス原人、澎湖人がいた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1155)】

【amazon 『我々はなぜ我々だけなのか』 カスタマーレビュー 2018年6月21日】 情熱的読書人間のないしょ話(1155)

赤いヤマモモの実、黄土色のキウイフルーツの実、薄青色のブルーベリーの実、黒いブラックベリーの実が美味しそうです。リンゴ、ザクロ、トチノキ、ラクウショウが実を付けています。因みに、本日の歩数は10,755でした。

閑話休題、『我々はなぜ我々だけなのか――アジアから消えた多様な「人類」たち』(川端裕人著、海部陽介監修、講談社・ブルーバックス)のおかげで、人類史の知識を更新することができました。

本書は、200万年に亘るアジアの人類史を対象としています。「アジアには、かつて、目を見張るほど多様な人類がいた。そこへ、ホモ・サピエンスが現れた。彼らはいろいろなかたちで出会い、そして混血した。そうした集団どうしの交わりは、『サピエンスと古代型人類』だけではなく、古代型人類の集団どうしでもあったと考えられる」。

「ジャワ原人は、120万年前までにはもうジャワ島にいて、5万年前頃まで生きのびていた可能性がある。・・・21世紀になって見いだされ、一大センセーションを巻き起こしたホビットことフローレス原人は、その先祖が100万年くらい前までにはフローレス島に渡来し、やはり5万年前くらいまではいたらしい。・・・北京原人は、ジャワ原人やフローレス原人よりはずっと早く姿を消したけれど、おそらく40万~10万年前頃の中国南部や台湾には、顎が際立って分厚い別の原人が暮らしていた。台湾の澎湖人の発見をきっかけに提唱されたこのグループを、『アジア第4の原人』とすることができる。この発見によって、北京原人とジャワ原人がこれまで同じホモ・エレクトスとされてきたことを再考する必要があるかもしれない。アジアに広くホモ・エレクトスが分布し、その地域集団が北京原人やジャワ原人だったというこれまでの見方が正しいとすると、『その間』には連続的に移り変わる中間的な原人がいてしかるべきだが、その代わりに、予想とかけ離れた、顎の分厚い原人のグループが出てきたのだから」。

「また、原人よりも進歩的な旧人の姿もあちこちにほの見える。『中国の旧人』は、北京原人のあとに現れた別の人類で、年代が正確にはよくわかっていないものの、36万年前から10万年前の間にいたのであろうとされている。また、ロシア・アルタイ地方のデニソワ洞窟からは、10万~5万年前頃の謎めいたデニソワ人が見つかっており、同時期にネアンデルタール人もいたことがわかっている。両者は同じ洞窟から出てきている。以上、年代については常に論争があるものの、数万年、数十万年さかのぼれば、本当にたくさんの種類の人々(ホモ属)がいたこと自体は間違いない」。

本書のおかげで、2015年に発表された「アジア第4の原人」(澎湖人)のことを知ることができました。「海部さんたちの予測通り、(台湾の海底から発見された)澎湖人が19万年前以降に存在したとすれば、『中国の旧人』の中に混じって、原始的特徴を残す原人集団が生き残っていた可能性が浮上する。では、旧人と原人はいったいどのように住み分けていたのだろう。謎が多い。そもそも、『中国の旧人』も、まだ分類や進化的背景がよくわかっておらず、今後、このあたりの展開はスリリングなものになるかもしれない。また、その時期、アジア北西部には、デニソワ人やネアンデルタール人といった別の旧人集団が迫っていたこと、そしてずっと南のジャワ島(陸続きになったスンダランド)にはジャワ原人が、さらにフローレス島にはフローレス原人がいたことも付記しておきたい」。

ホモ・サピエンスだけが生き延びた理由は何なのでしょうか。「新人サピエンスと旧人や原人との違いは、サピエンスはいろいろなところにあっというまに行けちゃったということです。一方で、旧人や原人は行けないから(それぞれの場所で)多様化しました。フローレス源人は島に閉じこめられていたし、ジャワ原人も次々にフローレス島に渡ったわけではない。ほかの動物もそうです。インドネシアの島々には、旧人は来なかった。だから、インドネシアはずっと原人がいた場所でした。新人は大陸からすぐに来たのに、旧人は来なかった、というかおそらく、来ることができなかったんです」。

「ホモ・サピエンスは、かつての人類が到達できなかったありとあらゆる場所へとあっというまに広がった。ユーラシア大陸を東端まで歩き通すのは、原人も、おそらく旧人も果たしたことだが、ホモ・サピエンスはそこから先が違った。航海術を得た集団は、インドネシアの島々や、ニューギニアやオーストラリアに至った。寒い地域でも生き延びられる技術を得た集団は、シベリア奥部にも進出して、やがてベーリング海の陸橋を渡り、アメリカ大陸は拡散した」。

「ホモ・サピエンスの均質さは、地球を股にかけることができる能力の裏返しだ。長い時間をかけて身体を大幅に変えるのではなく、洗練された石器を使い、海洋には舟を、寒冷地には毛皮の服をといったふうに、時と場合によって適した技術を創造しては乗り越えていった。・・・地質学的な時間の流れでいえば、わずか期間で地球上に散らばったがゆえに均質で、その後も遺伝的な交流が続いているがゆえに、もっと均質だ」。「閉じ込められている」原人、旧人には多様さが、「どこにでも行ける」ホモ・サピエンスには均質さがもたらされたというのです。